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「比呂士くん、すみません。お願いがあるのですが」 自室の外、聞きなれた父の呼びかけをドア越しに受けた私は、参考書を閉じて首を傾げた。常に温和で泰然自若とした態度を崩さない父にしては、珍しく途方に暮れた声音だったので、不思議に思ったのだ。扉を開くと、悄然とした様子で白衣姿の父が立っている。腕には、ひとかかえほどの大きな木箱を抱いていた。 「どうしたんです、お父さん」 「勉強中に、ごめんなさいね。実は、しばらくこの本を、比呂士くんのお部屋で預かってもらえないかと思いまして」 父が落とした視線の先を追えば、なるほど、彼が抱えていた木箱の中には、おびただしいほどの本が敷き詰められていた。文庫本から雑誌、分厚いハードカバーまで、中身は大小様々だ。 「どうしても、棚に入りきらなくて。整理し終わるまででいいんです。お部屋の隅にでもいいから、この箱の分だけでも比呂士くんのお部屋に間借りさせてもらえないかな」 父は恐縮したように、背中を曲げて頭を掻く。彼は医師でありながら、地域でも有名な蔵書家で、彼が学生の頃から蒐集を続けたそのコレクションの数々は、近頃には書斎の床を脅かすほどにまで膨れ上がっているのだった。 「……お父さん。お母さんの言葉じゃないですけど、最近またちょっと増やしすぎですよ」 「いえ、その、先日の古書市の充実ぶりが素晴らしくて、つい。…すみません」 本を前にすると後先考えられなくなってしまうことは、骨身にしみてわかっているんだろう。自分よりも大きな身丈を縮めて頭を下げようとする父に、私は苦笑をこぼした。子供のように目を輝かせてページを追う、無邪気な父の姿を知っているから、結局母も自分も、父にはいまいち厳しくなりきれないのだ。 「わかりました、お預かりします。けれど、もう出来る限り増やさないようになさってくださいね。いい加減、2階の床が全部抜けてしまいそうで、心配になってしまいますから」 「ありがとう、比呂士くん。肝に銘じます」 真面目くさった口調で答えた父とひとしきり笑い合ったあと、私は木箱を抱え上げた。置き場所に迷い、結局ベッドの足元にそれを下ろす。そのままの流れで布団に腰を落とし、改めて観察した限りでは、箱の中身は実に様々なラインナップであるらしかった。医術書、学術書や思想書にとどまらず、エッセイや小説、趣味の雑学書まである。整理しきれなくなったものをとりあえず避難させた、というのにふさわしい様相に、私は小さく笑みをこぼした。それらのひとつひとつを手に取っては、眺めていく。しかし、その途中で。 「―――おや?」 木箱の中身は本ばかりと思っていた私が、ひとつだけ異彩を放つものにゆきあったのは、すぐだった。小さな、青いブリキの箱が、本の中にうずもれて眠っている。父の私物が間違えて紛れ込んでしまったのだろうか?ゆっくりとそれを手に取ると、軽い重さがあり、何かが入っているのがわかる。中身を確認しようか逡巡していたところで、……異変が起きた。ぐらり、と、頭が揺れ、途端、猛烈な睡魔が私を襲いかかったのだ。ぐっと一気にまぶたが重くなり、身体中が痺れたように言うことを聞かなくなる。何――、一体なんだ、これは。突然のことに驚く意識を尻目に、感覚の鈍くなった身体はベッドに転がり、次いで吸い寄せられるように目を閉じてしまう。昨夜は確かに、研究論文の資料集めに追われて、寝不足気味だったけれど――いや、それにしても、おかしい。一体、何がどうしてしまったと言うんだろう。おかしい、瞳を、開けなければ。しかし理性のシグナルは、殆ど効力を成さなかった。とにもかくにも、眠くて堪らないのだ。 抵抗もむなしく、ブリキの箱を腕に抱えたまま、私はとうとう、渦に引き込まれるように眠りに落ちた。睡魔の手招く腕は、優しい。夢の世界に誘い込まれた私の意識は、プラネタリウムのようにチカチカと幾千もの星の瞬きが明滅する闇の中を、ゆっくりとすべるように流れていく。遠く、近く、波のような音が寄せては返し、真っ暗なのにあたたかい場所。それはまるで、まだ乳飲み子だったころ、母の腕に抱かれていたあの時のような――― 次に目を開いたとき、私はまだ、擬似プラネタリウムの闇の中にいた。ふわふわと、宇宙空間を無重力で漂うように。なんだ、夢か、と納得して再びまぶたを閉じようとすると、「おおい、そこのねぼすけさん」と、見知らぬ男の声が体の上に落ちてくる。しかし私は目を開けなかった。生まれてこの方、私は自分を“ねぼすけ”と評されたことが一度としてなかったので、その呼びかけがまさか自分を体現したものだなんて、考え付きもしなかったのだ。 短いような、長いような沈黙のあと、「それ」は突然、起こった。唐突に、体が勢いよく引っ張られて、上下に引っ繰り返されたのだ。私は当然、大いに仰天して飛び上がった。その際、喉から絹を裂く女性の悲鳴のようなものが漏れかけた気がするが、聞かなかったことにしたい。(だって、突然身体が上下に引っ繰り返ったら、そりゃあ誰だって驚くでしょう!)驚天動地で目を見開き、逸る鼓動を抑えようと胸を押さえる私の腕を掴んで立っていたのは、見知らぬ、不思議な青年だった。年の頃は、私と同じくらい。どうやら、彼が私を引っ張り起こしたらしいが、しかしひょろりと痩せて骨っぽい身体のどこに、そんな力があったのだろう?その上顔色は青白く、上から下まで黒衣を纏っているから、余計に血色が悪く見える。けれど面立ちは端正だ。星の瞬きに照り返されて輝く、鈍い銀色の髪と、猫のように切れ長の青い瞳。口元に小さく、しみのようなほくろがあるのが印象的なひとだった。 「ねぼすけさん。お前さんこと、呼んどるんよ」 西の方言が混じった不思議な言葉遣いで、彼はそう言った。眠そうなまなざしが、まっすぐに私を見つめていたので、ここでようやく私は、“ねぼすけ”が私を称する言葉以外の何物でもないことに気が付いた。おそるおそる、口火を切る。 「……あの。それ、私の事でしょうか」 「お前さん以外に誰がおるん。見渡してみんしゃい。俺と、お前。他に誰がいると?」 揶揄するような声。顎を反らして促され、私はあたりを見渡す。最初に目を開いた時と同じく、やはり周囲は一面、星の海だった。人影らしきものは他になく、確かにあたりは私とこの見知らぬ青年、ふたりきりのようだ。地に足を付けている感覚がないので、下を伺うと、はるか足下には、見慣れないようで見慣れた、私の生まれ育った住宅街がジオラマのように広がっているのが見えた。時刻はすっかり真夜中なのだろうか。明りの灯った家はひとつとしてなく、道脇の街灯でさえ、ひっそりと沈黙を保っている。あるのはただ、周囲に無限に広がる、幾億もの星の光だけ。まるで自分たちが、空の真ん中に佇んでいるかのように。 「………ここは、一体」 「お前さんの夢の中。別名、反転した現実世界で、俺みたいなハンパモンの根城でもある」 青年は、薄く皮肉っぽい笑みを浮かべてそう言った。しかし、その内容はいまいち噛み下せない。さもまずいものを食べたような顔をしていたんだろう、私の横顔をちらと一瞥したあと、彼は決まり悪そうに頭を掻く。「要は、夢だよ。お前さんにとっちゃ、全部夢の話ってこった」 夢。それにしてはリアルな気もするが、しかし念のために腕をつねってみたところ、確かに痛みはまるで感じない。そうだ、私は先ほど、父の本を整理中に、転寝をしてしまったんだ。これはその、夢。夢? 思考を整理するために黙り込んだ私のそばから、青年が離れる。同時に、掴まれたままだった腕もほどかれた。そういえば、他人に腕を掴まれていたにしては、いやに触感が希薄だったことを思う。彼に引っ繰り返された時でさえ、痛みも衝撃も殆どなかったのは、これもまた、夢だからなのか。尋ねると、青年はまた皮肉っぽく口元を持ち上げて、ニイ、と笑って見せた。何かを企てるような笑顔は、美しい反面、まるで童話に出てくるチェシャ猫のようでもある。 「ま、夢は夢だが、普段お前さんがおネンネして見る夢の世界とは、違う。ここは、普段お前さんらが生活しとる現実世界とは、命の“反転”してる世界っつー事ぜよ」 「命が、反転?」 「ここは、お前さんが普段生きとる世界と、逆の世界なんよ。現実で生きてる命のある奴らは、こっちの世界じゃ姿が見えん。太陽も、風も光も、もちろんヒトも、命のあるもんはこっちにはなぁんも映らないんじゃ。この世界全体が、現実世界の影みたいなもんぜよ」 映画の世界の特殊な設定のようなことを、青年はすらすらと話した。わかるか、と視線で尋ねられたので、圧倒されながらも頷く。なるほど、見下ろす街に人気も明りもないのは、そのためなのか。現実に聞いたならとても信じがたい話だったろうが、夢の中なのでまだ噛み砕くことが出来た。しかし、この場所にも「彼」にも、夢にしては奇妙なリアリティと鮮明さがあるためか、単純なおとぎ話と切って捨てるには、どうにも落ち着かない。よほど複雑そうな顔をしていたんだろう。青年はにわかに噴き出すと、おかしげに声を立てて笑い出した。 「お前さん、マジメなんじゃね。わけがわからん、ちゅう顔しとる。な、お前、名前はなんちゅうの」 「……はあ。柳生比呂士と申します」 「ハハ、名乗り方まで優等生じゃ。お前、まわりから紳士とかジェントルマンって呼ばれとらん?」 揶揄するような彼の言葉は、しかしまさしく私の世間一般でのあだなであったので、不本意ながらむっとして口を閉ざすと、彼はますます腹を抱えて笑い転げる。なんとか笑いをおさめる頃には、目には涙さえ浮かべていた始末だった。 「はあ、おかしか。何でお前さんみたいなヤツに俺、“引き寄せられた”んじゃろ。見かけから性格まで、まるで正反対やっちゅうのに」 「……あの。引き寄せられたとは、どういう意味です?そもそも、貴方は一体」 とうとう私は、出会った瞬間から彼に対して抱いていた疑問を投げかけた。彼はこの世界を私の夢だと言ったが、そもそも夢というものは、人間の大脳が反射によって睡眠時に起こす、無意識下での活動を指す言葉だ。すなわち夢の中の登場人物とは、夢を見る人間のよく知覚している存在に限るはずで、しかし私は正直なところ、彼という人間を見たのも初めてならば、会話したことさえ初めてだった。印象的な人だ、一度でも見かけた事があるなら、二度と忘れることはなさそうなのに。 私の問い掛けに、彼は笑みを引っ込めた。少し、どう説明したらいいか図っているような間を置いて、彼は再び口を開く。先程より、やや真面目な口調だった。 「こっちの世界は、お前さんが普段生きてる世界と逆だって、今言うたよな。お前さんのように、現実世界で生きてる奴らは、こっちの世界じゃ姿は見えん、って。じゃあ単純に、逆説的に考えて、こっちの世界で姿が見えるもんは何やと思う?生の反対は?」 嫌な予感がした。私は思わず黙り込み、とっさに青年を見たが、彼は続ける言葉を止めてはくれなかった。 「答えは、“死”じゃ。要は、現実の世界でおっ死んだあと、あの世に行けんで魂だけでフラフラしとるような連中が、初めてこっちの世界で動きが取れるんよ。――つまりは俺、死んどるの。1ヶ月くらい前に。まあ、俗に言う、幽霊ってヤツ?」 青年の口調は、実にあっけらかんとしていた。私は開いた口がふさがらず、ぽかんとして彼を見る。だって―――だって、彼が死んでいるなんて。幽霊だなんて。童話のように透けているわけでもないし、足がないわけでもない。確かに顔色は悪いけれど、それだって死人のそれとは違う。それなのに。 目を白黒させて言葉を失っている私に、彼はちょっと笑って、その場に足を抱えて座り込んだ。どことも知れない場所を見つめる顔は、しかしどこまでも飄々としている。 「名前も覚えとらん。年も、親の顔も。ただ、この街に住んどった事だけは、わかる。なんとなくな、こっからこうやって街を見下ろしてると、落ち着くんよ」 「……………」 「この場所は死人の暮らす街じゃーって、さっき言うたけど、でもここは“あの世”とも違うんよ。普通の幽霊は死んだ後、この場所を通った星の先で天国行きと地獄行きにふるいかけられて、もう一回生まれるための準備に入るんじゃ。ここは、単なる通過点に過ぎん。当然俺もまあ、ここを通っていずれは成仏せなあかんのやけど」 彼はそこまで言うと、ちょっと悪戯っぽく笑って、私を見た。 「実は、現世にひとつ、気になる事があってな。それが未練になってしょうがないきに、あそこの煙突にしがみついて、連れてかれんの嫌じゃ嫌じゃー言うとったら(言いながら彼は、遙か下の街中、銭湯の煙突を指差した)いつの間にかお迎えが次の便に回されとったんよ。そんでまあ、これは未練を解消するための猶予時間じゃ!と思ってな。本当にお陀仏になる前に、最後の足掻きをしてやろう、と一念発起したわけじゃ」 「…未練、ですか?」 「うん。忘れ物、したんよ。それだけははっきり覚えとるんじゃ。あれ残したまま、死ぬわけにいかん。絶対」 彼はきっぱりとそう言った。終始ねむたげだった彼の目に、その瞬間だけは火のような感情がともったのを、見る。彼は次いで、私に視線を移した。口元はうっすらと笑ってはいたが、目は笑っていなかった。と言うより、笑おうとして失敗した感があった。どきりとする。 「じゃけ、お前―――柳生、じゃったっけ。手伝ってくれん?俺の探し物。この街にあるんは何となく覚えとるんじゃけど、はっきりした事はなんもわからんし、何より広すぎてな。俺ひとりじゃどうにもならんのよ」 「て、手伝うって……私がですか?」 あまりに突拍子のない発言だったので、自然、返す声が上ずった。彼は頷く。いやいや、そんな当たり前のような顔をされても、おいそれと納得できる条件ではない。一体なぜ、数多の人がいる中で、彼は私を指名したんだろう?確かに、私には彼と同じく、この街に暮らし、この街をよく知るという条件があるが、彼個人の探し物であるなら、もっと彼をよく見知っている人間にこそ、頼むに相応しいと思うのに。尋ねると、彼は実に面倒くさそうな顔をした。ボリボリと頭を掻きながら、「そんなん、知らん」と、私とは対照的な低い声で呟く。 「知らんよ、そんなん。俺やって、神様がもしおるんなら問い質したいぐらいじゃ。ただよう知らんけど、夢枕に立つのに一番相性ええんが、お前やったんもん。ちゅうか、助太刀を頼むの誰にしようか考えとったら、勝手にお前の夢ん中に引き寄せられとった。そりゃあ、俺ひとりで探しきれりゃあ、何も問題はないぜよ。けど、そういう悠長な事も言ってられん状況やし。俺やって、どうせ頼むんなら、もっとデカパイのねえちゃんが良かったに決まっとるじゃろ」 ……どうやら、彼のほうも不本意らしい。つまらなそうに突き出された唇が拗ねている。(ていうか、デ…!女性の風貌に拘るなんて、破廉恥な!)しかしそんな人間らしい仕草に少し情が湧いてしまうのは、この青年の策略にはまったゆえなのか。不思議だ。外見にも言動にも、殆ど共通点と呼べるものなんてないのに。どうも彼は人の心を掴み、動かす事に長けている様子だった。そもそも、いくら夢の中とは言え、これから死に、天国に渡るという人間の願いを無下にするわけにもいかない。たっぷり数十秒は迷った後で、「手伝うと申しましても」と、眼鏡を押し上げながら尋ねた。 「一体、私に何をどうしろと?私は探偵ではありませんし、探し物をするのに相応しいアテを持っているわけでもありませんよ」 「何、簡単じゃ。毎夜、この夢の世界の中で、この街ん中、ちくっとしらみつぶしに探してくんを手伝ってくれればいいんよ」 彼は悪びれずにそう言った。それは簡単とは言わない、と目線で訴えるが、口笛を吹く姿はどこ吹く風、という風体だ。むしろ断れるはずもないだろう、という顔で、私の目を見つめて皮肉っぽく微笑んでいる。完全に、確信犯のまなざしだった。私は深く、ため息をつく。どうせ夢、されど夢?ああ神よ、彼の言ではありませんが、一体私は何の因果で、彼の失せ物探しに選ばれたのでしょう? 「まあ、そない難しい顔せんと。暫く、騙されたと思って付き合ってくれんかの。紳士くん」 「―――その呼び方はよしたまえ」 「こりゃ、失敬。じゃあ、柳生。――頼む」 相変わらず皮肉っぽく笑んではいたが、彼の声は真剣だった。それも彼の戦術なのかはわからないが、おどけたように振る舞いながらも、彼は肝心なところでは真摯だ。そうされてしまえば、人として彼に応えざるを得ず、私は観念の意を込めて、再度の嘆息を落とした。しかし、改めて内情を尋ねようとしたところで、彼がふと何かに気が付いた様子で立ち上がり、静かな動きで上を仰いだ。じっと目を凝らし、上空の何かを見つめる様につられて上を仰ぐと、天の真ん中でひときわ明るい光を放っていた星が、チカチカと鋭く明滅しているのが見える。明けの明星のような輝き。「頃合じゃな」と、彼はぽつりと呟いた。 「頃合?」 「そ。そろそろ、現世のお前さんが目を覚ます。あの星は、夢の世界が閉じるっちゅう合図なんよ。ちゅうわけで、次の逢瀬は、明日の夜までお預けじゃな」 「え、」 「つまり、お前さんにとっちゃ、オハヨウ。俺にとっちゃ、オヤスミナサイの時間っちゅう事ぜよ」 片目をつぶった彼は、プリ、と、解読不能な言葉を残し、ひらりとひとつ、手を振る。それと同時に、あたりの景色が急速に薄れ始め、私は目を瞠った。暗闇に包まれた街、擬似プラネタリウムのような星空、そして目の前に立っていたはずのあの不思議な青年の姿でさえも、みるみる内に銀色の光の粒に分解され、空気に滲んで溶けていくのがわかる。巻き込まれるのも唐突なら、開放されるのも唐突な夢だ。私は慌てて、閃光になって消えゆこうとしている青年に呼びかけた。 「あの!!貴方はご自分の名前も、何も覚えていないと仰っていましたけれど、」 砂嵐のようにかすみかけた青年の影が、怪訝そうにこちらを振り返ったのがわかる。私はいっそう声を張り上げた。 「次にお会いするとき、私は貴方を何とお呼びすればいいんです?私は貴方を、貴方のことを、ちゃんとした言葉で呼びたいのです」 そう、叫びかけ、彼の目が驚きに瞠られた瞬間、ザ、と、光の風が駆け抜け、同時にすべての景色が真っ白になった。ホワイトアウトした視界の中には、既に青年の姿も、夢のなごりも、何も見えず、ただ前方、白のずっとずっと向こうには、あたたかな陽の光が満ちているのだけが、わかる。朝が到来したのだと、何となく理解した。彼の話を借りるなら、この光こそが「夢の世界」から「現世」への出口なんだろう。ふりそそぐ光がまぶしくて、思わず目を閉じた。差し込んでくるぬくもりは、閉じた瞼にも優しく染み渡ってくる。本物だ。 それにしても。私は果たして本当に、彼とまた再びあの不思議な夢の中で再会することが出来るのだろうか。徐々に近付いてくる光に包まれながら、私は静かに考える。夢とは、殆どの場合、ほぼ例外なく1回限りで終わり、目覚めた瞬間から砂のように崩れて消えていくものだ。そんな中で、あの不思議な方言交じりの声が、幽霊だと名乗る彼が、あの独特なアクセントで私を「柳生」と呼ぶ瞬間が、本当にもう一度やって来るのだろうか。彼の探し物を手伝ってやるそんな時間が、本当にもう一度? 夢から覚め、現世に戻るための回廊の中、ぼんやりと夢から覚める瞬間を待つ私の耳に、青年の笑い混じりの声が、波音のように優しく響いたのは、その瞬間だった。 (――――俺は、獏(バク)。お前の夢に入り込んで、上書きしては食っちまう、どーしようもない名無しユーレーの、“バク”じゃ。また明日な。―――やーぎゅ) 次に目を開いたとき、視界は見慣れた自室の天井の白一色だった。不自然な体勢で眠ったためか、身体の節々が痛む。蛍光灯はつけっぱなし、眼鏡もかけっぱなしだった。薄く引かれたカーテンの向こうには、朝日が穏やかに輝いている。シーツの上には、父から預かった色とりどりの本たちが、昨夜広げた姿そのままで散らばっていた。 身を起こし、ひざの上に視線を落とす。これもゆうべからそのままの、青いブリキ缶。海のような、空のような、しみわたるような青を見つめていると、夢の中で出会ったあの不思議な青年の、薄くブルーがかったまなざしが思い出される。最後の声が幻でないとするならば、彼は自らを、バク、と名乗った。古代中国の故事成語によれば、夢から夢を自由に渡り歩き、悪夢を食べ、祓い清める力を持つとされる、獏。突然現れて、夢枕に立ち、不思議な魅力で私を巻き込んで、世界を一色に塗り替えていく彼は、なるほど、自由に夢の世界を飛び回る、神獣・獏の名に相応しいのかもしれない。 立ち上がり、カーテンを開く。窓の向こう、広がっている限りない青を見つめ、きびすを返す。夢でありながら、夢にありえない存在感で、あの空の裏側、反転した夜の世界で、ひとり膝を立てて座っているであろう銀色のシルエットを、瞼の裏に鮮やかに刻んでいる自分を、私は確かに知っていた。 (to be continued…) あとがき続いちゃった。パラレル82、時代設定は原作基準で、もしも仁王くんと柳生さんが立海で出会っていなかったら、というイメージで書きました。元ネタは、「獏」と名乗る仁王くんと夢の中で恋をする自分を、夢で見たからです(…)なんかスランプ気味で流れがぐちゃぐちゃなので、あとで暇があったら直します。見苦しくてすみません!3〜4章くらいで終わらせたいです。お読みくださりありがとうございました!感想や批判など、いただけたら嬉しいです。 |