「はじまる」









全国大会を終え、事実上の3年生達の引退を迎えた立海大テニス部。新部長となった赤也への引継も兼ね、残りの夏休みを隣県の海浜キャンプ場で過ごす事にしたかつてのレギュラーたち8人は、夏を惜しむように、秋を待ちわびるように、つかの間の小旅行を楽しむ。2泊3日最後の夜を、浜辺で花火をして過ごしていた彼らは、ふとした拍子に干潮の岩場に小さな洞窟を見つけ、面白半分で探索に入るのだが、洞内で「時計ウサギ」と名乗る不思議な男に出会った事で、彼らの運命は一変する。

時計ウサギはパソコンに似た形状の機械を取り出し、8人に「ロボットに乗って、地球を襲う敵性怪獣を撃退するゲーム」をしないか、と持ちかけてくる。開発中のコンピューターゲームの一環だろうと考えた8人は、時計ウサギに誘われるまま、小さな銀の板にそれぞれの手のひらをついて名を名乗り、ゲームのパイロットとなる「契約」を結ぶのだが、その後時計ウサギに導かれて海辺に集まった8人は、彼の号令と共に海の中から現れた、黒い巨大なロボットの姿に愕然とする。8人がパイロットとして契約したものは、現実世界を股にかけて行う、三次元のリアル・ゲームだったのだ。

時計ウサギは8人を、黒いロボットのコックピット内に転送する。ロボットの中は映画やアニメのように機械で制御されたイメージとは全く違い、広々とした黒い空間に、巨大スクリーンのように眼下の光景が映し出されている、というシンプルな場所だった。やがて彼らの上空から、音もなくくるくると回る8脚の椅子が降りてくる。















その光景は、まさしく映画で見る特殊効果そのものだった。目の前を、やっつの椅子が宙を浮き、くるくると音もなく8人が囲む円の中を回っている。視界の端で、柳生の目が仕掛けをとらえようとせわしなく動いているのがわかったが、モーターも電磁機器も一切見当たらないその空間に途方に暮れたのか、やがて首を竦めて視線を落としてしまった。「すげえ、すげえ!!」丸井が騒いだ。「リアルでSFん中にいるみたい。ほら、あれ、こないだ金曜ロードショーでやってたやつみたいな。なんだっけ、タイトル。弟と見たんだけど」

「ジアース」

コックピットから眺望する真夜中の水平線を眺めていた、柳の涼しげな声がこたえる。「そう、それ!」丸井が大声をあげて賛同した。「真っ黒いロボットに乗ってさ、宇宙人と戦うやつ。俺らもマジにそうなんだな。リアルタイム・ガンダム!」

アホかい、と仁王が眠たげな声で毒づいた。彼は端からあまりこの状況に興味がないらしく、コックピットの隅のほうや天井の方を、見るともなく眺めているばかりだ。温度差にムッと眉を寄せた丸井の肩を、どうどう、と言いたげにジャッカルの手が宥めにかかる。時刻は午前1時23分。晩夏の砂浜には、人っ子ひとり見受けられない。

「しかし、時計ウサギ。宇宙から襲来する敵、と言うが。一体それはいつ何処に、どんなタイミングでやって来るというんだ」

いつもならばとっくに布団を被って寝ている頃の真田も、流石の事態に眠気そのものが飛んでいるようだった。しかつめらしい口調と表情で、しかしどこか落ち着きなく帽子のつばをいじる彼の前で、コックピットの先頭に立っていた時計ウサギが振り返りぎょろぎょろと眼球を動かして、「あー、あー、うん。」と無意味に呻く。頬肉が削げ、骨の浮き立つ尖ったウサギの横顔は、いささか人間味に欠け、まるで限界まで飢えた獣のそれだった。そのわりに、瓶底メガネの向こう側の目は生気に欠けてどろりと濁っているのが、不釣合いで逆に寒々しい。いくつもの矛盾がいっしょくたになって、時計ウサギという男の構成要素となっている。

「すぐ、来る。もうすぐ来るよ。敵がね、来ると、パイロットはすぐわかるから。」

時計ウサギが淡々と話す。「すぐわかる?」と、赤也がその言葉をさらって首を傾げると、時計ウサギはまた、「あー、あー、うん。」と無意味に呻いた。

「そう、“わかる”んだ。そういう風になってる。そういう仕組み。パイロットならね。」
「パイロットっていうのは、どういう順番でまわってくるものなんスか?」

赤也の問い掛けに、時計ウサギは短く「ルーレット。」と答えて、ぼんやりした様子で、くるくる中空をまわり続けているやっつの椅子を見上げた。促されて8人が上を仰いだのと同時に、椅子はやがて回る速度を落とし、ゆっくりと降下を始める。回転が弱まったことで気付いたが、オッド付きの革張りのチェアもあれば、日ごろ教室で使っているような木製椅子、単純なパイプ椅子からスツールまで、椅子の種類は実にさまざまだ。やがて椅子は完全に回るのを止め、円になって立つ8人の前にそれぞれ音もなく降り立った。同時に、「あ、」と、驚きの声をあげたのは、ほぼ8人全員である。なぜなら、自分の前に下りてきた椅子は何のことはない、日がな自分が一番なじみを持って接していた椅子そのものだったからだ。幸村の前には少しネジの緩んだパイプ椅子、真田の前にはテニスコートでいつも彼が使っていた白いベンチ、柳の前にはパソコンに付属の、キャスター付きのチェアが下りてきた。柳生の前には書斎のデスクにそろえた革張りチェアが、丸井とジャッカルの前には教室で使っている椅子がキズもそのままに、仁王の前には殺風景なアルミのスツールが、赤也の前には紺のクッションがついた木製の椅子が並ぶ。かたや嬉しそうに、かたや複雑そうに、かたや楽しそうに、かたや疎ましそうに、思い思いの様子でそれらを眺める8人に、「あー、あー、うん。」とまた時計ウサギの無意味な声が呻いて、「敵を倒すたびに、こうしてルーレットが回る。回転が止まって、操縦席の位置に止まった椅子の主人が、次のパイロットさ。」と、淡々とルールが説明された。見れば、スクリーン前面、コックピットの中央には、古びたアンティークチェアがはめこまれ、その椅子にもういつの間にやら、当たり前のように腰掛けている時計ウサギがいる。 「最初のパイロットは僕だ。ゲームはいつも、電源ボタンを押した人間からスタートする。君たちはこれから僕の戦い方を見て、自分でようく学ぶんだ。君たちの、これからのことを」 時計ウサギの声は静かだった。静かなのに、どこかで騒音みたいにも感じられる声だった。目をすがめた8人の前で、ウサギが前に向き直る。「来たよ」と、彼は他人事のように言った。眼下に広がる真っ暗な夜の水平線の向こうに、何か大きな、とてつもなく大きな蜘蛛のような、黒い不気味なシルエットが、今にも立ち上がろうとうごめているのが見える。

僕らの世界の夜明けまで、あと、9人。




(to be continued…)