「生まれる」










柳蓮二は、安寧していた。1でも2でも3でもなく、4番目のパイロットに、自分が選ばれたこと。戦えば必ず死ぬゲーム、終わりを目前にして、確かにかすかに一抹、寂寞のようなものはある。 しかし、それが俗に言う、恐怖という感情でないことだけはたしかだ。もしもそうならば、おそらくこんなにたいらかな気持ちでは、自分は今ここにはいないだろうと、他人事のようにかれは考える。
おそらく自分は、世界から少し遠いのだ。その自覚はものごころついたときからもうずっと、柳の心の中に昂然とあった。家族に愛された。切磋琢磨する友とめぐりあい、目指す目標、得たい力があった。けれど、いついかなるときであっても、柳蓮二という男の心は、激することなくただ静かだった。笑うことも泣くことも、怒ることも嘆くことも、知らないわけではないのにどこか遠いできごとのように考えるきらいが、彼にはある。そして結局このどうにもならない空隙はうまらぬまま、どうやら自分は近く死ぬらしい。それを知ってもなお、鉛のようにかたく、鈍重に動かないくさびのようなものが柳の中にはふかぶかと突き立っていて、それを抜く手段、それにつなぎとめられたものの正体は、おそらく終わりの時が来てもなお、ついぞ得られないままなのだ。



























丸井の「名誉の戦死」、翌日。表面上、なんら変わることなく立海への往路をたどる幸村の前に、再び氷帝学園の跡部が現れる。「またなって言っただろ」、と、おもむろに跡部が掲げて見せたのは、指先ほどの大きさの機械――高性能盗聴器だった。「仕掛けさせてもらったぜ」、と、静かな声で告げる跡部は、丸井が教室で大暴れした日、立海の前で会話をした時にはもう、既に盗聴器を幸村に仕掛けていたのだという。「悪いな」、と、なんらばつが悪そうでもなく言い放つ跡部に、幸村は笑う。怒るでも惜しむでもなく、単純に笑いがこぼれた、というふうに。

「ずいぶん、王子様らしくないことするんだね」
「なんとでも言いな。一度気になったら、とことんまで追求しないと気が済まねえタチでな。…まあでも、実際にスイッチを入れたのは、その日の夜からだ。あの時、ジローが傍迷惑な電話かけてこなきゃ、おそらく使わねえままでいただろうな」
「芥川くんが?」
「丸井が消えた、ってな。ついさっきまでそこにいてテニスをしてたのに、煙みてえに消えちまった、どうしよう、ってギャアギャア騒ぎやがる。俺に聞いても知るか、よそ見してる間に帰ったんだろ、っつっても聞きゃしねえ。恐慌に近い。なんでそんなに切羽詰まってんだって聞けば、しまいにゃこうだ、」





だって丸井くん、死んじゃいそうに見えたんだ。





無表情になる幸村。跡部は少し言葉を切り、小さくため息をついた。

「そこでピンときたんだよ、本格的に、立海の奴らには“なにか”あるってな。それでスイッチを入れたら……あとはご想像の通り。少なくとも、“アラクネ戦”の経緯に関しちゃあ、まあ、全部聞かせてもらったぜ」
「――そう。感想は?」
「くだらない上に笑えねえ筋書きだが、まあ、信じざるを得ねえな。この状況では」

ふと左方を見上げた跡部の視線の先には、真田対ドラム戦の戦禍がいまだなまなましく、そこかしこに倒壊したビルの瓦礫や、ヒビの入った石塀が残っていた。真田が渾身の力で守った立海大附属の門手前まで、その瓦礫は続いている。沈黙の落ちたふたりのそばに、やがて黒いバンが停まった。跡部が指をしゃくる。

「幸村。ついてこい」
「どこに?」
「事態はもう、お前たちだけの問題じゃねえ。テメエらの場所を守るのは、テメエらの仕事だ。チェシャ猫だかなんだかがホームと呼んだこの場所に、暮らしてるのはお前たちだけじゃない」

盗聴器(これ)だけで補完しきれなかったことは、車の中で聞く。跡部の誘いに、幸村は少し黙ってから、頷いた。バンに乗り込む。

「他のメンバーたちには」
「声をかけてある。現地集合だ。安心しな、悪いようにはしねえさ」
「どうかな。王子様の顔に似合わず、わりとあくどいからな、跡部は」
「なんとでも言いな。否定するのも面倒だ」
「嘘だよ」

言いきる幸村に、跡部が黙る。「ありがとう、跡部」

「……次のパイロットは、決まってるのか」
「そのようだね。本人、今までで一番ケロッとした顔してたけど」

あいつ、頭いいけど、ときどきすごく馬鹿だからな。場合によっては真田より。
言いきる幸村の表情からは、何の感慨も感情も読み取れない。その横顔を見つめる跡部の胸元で、携帯電話が鳴った。2,3、短く言葉を交わし、跡部は通話を切る。

「どうやら、役者は無事に揃ったようだ。舞台に上がる前に、聞かせてもらおうか。“今まで”のことを」
「……今まで、ね。俺、話を端折る癖があるらしいから、説明とか向いてないって蓮二によく言われるんだけど、いいのかな」
「テメエに自信がねえなら、その柳に解説を頼むが」
「ああ、それはやめたほうがいい。次のパイロットはあいつだから」

絶句した様子の跡部を鑑みず、それに、と、幸村がどこかそっけない調子で続ける。



「あいつに説明させたら、不憫だよ。あいつがっていうより、周りで聞いてるやつらのほうが、よっぽどね」






























「柳先輩。俺も一緒に帰っていいですか」

学校からの帰路をたどり始めた柳を、切原が呼びとめる。声をかけておきながら、悄然としたふうに立ち尽くしている後輩に、柳は返事をしない代わりに道の右側を空けた。切原が黙って隣に並ぶ。

「ずいぶん、しおらしい様子だな」
「…あんた、それ本気で言ってたら殴りますよ」
「そうか。すまない」
「別にあんたが謝ることじゃねえし」

腫れぼったい目を伏せて、切原がつぶやく。丸井の戦死後、次なるパイロットルーレットが柳を指し示したとき、誰よりも慟哭し、恐慌したのは切原だった。どうしてだ、なんでだと喚き散らして、しびれを切らしたチェシャ猫が全員をコックピットから追い出すまで、彼は飽きもせず現実を詰り続けていた。感情を赤裸々に表出させることに、切原はいつも衒いがない。そんな彼だからこそ、死の直前、真田も丸井も彼に笑いかけたのだと、柳は思っている。切原がどこまで自覚しているかはわからないが、3年レギュラーたちにとって切原赤也という少年はどこか異種で、稀有で、特別な存在だった。それこそ、このゲームが始まるより、ずっと前から。

「……疎開、増えましたね」
「そうだな。俺のクラスに在籍していた生徒たちも、2週間前に比べて15名が転校、休学、ないし退学を申し出ている。学年で見れば半数に近い。下級生たちはもっとだろう、彼らはまだこの土地に縛るものが少ない」
「へー。いずれ、立海中から人が消えたりして、はは、」
「あながち、遠い未来でもないかもしれないな」
「……あんた、そのうち確率とか考えそうで嫌だ。立海が空っぽになるまであと何日、みたいな」
「まあ、出来なくはないが」
「やんなくていいよ」

切原の声はかたくなだった。そうか、と、柳は頷く。しばらく、会話もなく舗装されたアスファルトの道を歩いて、電柱のそばまでさしかかったとき、ふいに切原が立ち止ったので、柳も立ち止った。夕刻の喧騒がない。商店街も近いのに、閑散として町は静まり返っている。どうして?……人が死ぬからだ。不思議とこの町でばかり巻き起こる、世界中の命運をかけたゲームで。




「あんたって、怒らないよね」




ふいに、切原が言う。怒ったような声だった。柳は黙り、そうか?と首をかしげる。そうだよ、と、断言する切原の声は、やはりいささか憤然としていた。

「怒らないし、泣いたりもしないし、喚いたり逃げたりあがいたりしない。そういうの、無駄だと思ってるクチ?」
「別に、そういうわけではないが」
「じゃ、なんで?俺、正直今ちょっとあんたを怒らせてみたいんだよ。今だけじゃない。わりといつも思ってた。どこまでやったらこの人怒るんだろ、この人メチャクチャにするにはどうしたらいいんだろって。まあ、あんたが怒るより先に、たいてい副部長が怒っておじゃんになったけどさ」

真田の死後も、切原は真田のことを副部長と呼んだ。それが彼なりの、真田への最後ひとつの反抗らしいと柳は気付いていたが、特にそのことに言及しようとはしなかった。彼が認識していることと、実際口に出すことは、まったく等号でない。柳のそうした性質を、大抵の人間は達観していると少し遠巻きにするが、切原だけは初対面から、飽きもせずに言葉を欲しがった奇特な人物だった。彼は希求することにおそろしく貪欲だ。それは柳にはどうしても得られないものでもある。

「俺、ほんとけなげだったと思うわけですよ。最初は確かに、どうにかしてほえ面かかせてやりてえってだけだったけどさ。朝練に放課後練に帰り道、四六時中試しても、相手にされたことなんかなかった」
「…………」
「悔しくて悔しくて、あんた引退してからも諦められなくて。練習ではもう会えねえから、昼休み、あんた図書室にいることが多いから、通ったりなんかしちゃってさあ。俺、本なんかまるで興味ないのに。苦肉の策が、宿題教えてください、ですよ。まあ半分以上はほんとに教えてほしかったんだけど」

切原の話はさまざまに拡散し、目的と要点がちぐはぐだった。ああ、知っている、と思いながらも、黙って耳を傾けている柳に、切原は、つまり、と言う。やっとまとめに入るらしい。

「つまり、どういうことかっていうと。あんたにけなげに通い婚してるあいだに、俺ね、目的変わったりとかしちゃったわけです。知ってる?俺、あんたが好きだ。俺はただあんたに、俺ってやつをニンシキさせたかったんすよ」
「………認識なら、2年前からしていたが」
「そういうことじゃねえよ。あんた、わかってんでしょ?もうねえ、わかっててそういうこと言うのがむかつく」

切原はせせら笑った。笑ったあとに、一転し、まるで別人のように肩を落とす。



「なんで、あんたってそうなんすか?あんたもうすぐ、……死んじゃうんでしょ。ジャッカルセンパイや副部長や、丸井センパイみたいに。俺、あんたのことがマジでわかんない。あんたがルーレットでパイロットに決まってからは、もっとわかんなくなった。なんでそんな、いつもと同じ顔できるんですか?」



悄然とつぶやく切原。憔悴し、疲れ果てたように足を引きずる切原に、柳の中を憐憫に似た気持ちがわきあがる。けれど、切原が欲しがっているものは、こうした感情ではないのだろう、それも知っている。柳はしばたく思案して、「お前は、理解しないだろうが」、と口火を切った。やはり、淡々とした口調だった。

「I was born.という文章を訳せるか?」
「……え。なに、いきなり英語?」
「訳せないならいい。特に中身のある話ではないのでな」
「いやいやいや訳せますよ!生まれる、でしょ」
「そうだ」

柳は頷いて、ふたたび夕刻の街を歩きだした。切原は、不可解そうにしながらもついてくる。

「お前も習ったろうが、この文章は受動態という文法表現で成り立っている。be動詞の過去活用のあとに、本来は配置しない過去分詞を置くことで、〜された、〜させられた、という意味合いに訳することが出来るという、基礎的な文法表現だ。この表現を使うことで、単純に配置するだけでは能動活用のみしか得られない動詞に、精彩をつけることが出来る。wasはbe動詞「is」「am」の過去活用、bornはbearという動詞の過去分詞だ」
「はあ……」
「本来、bearという単語には“母が子を生む”という意味がある。これを受動態、受身形に変換して、“生まれる”という言葉を表現しているわけだ。もともと、日本語においても赤ん坊が母親の腹を割って出てくることを、“生まれる”と敢えて受身で表現しているからな。誕生とは、そもそもが受身であると言える。赤也、お前は自分の命が他発性のもとにあると知っていたか?」
「げ、原理は…。けど、そんなのって言葉遊びみてーなもんだし、だいたい今は違うでしょ。そりゃ、腹ん中にいるときは自発も他発もあったもんじゃないけど、今は俺は俺のやりたいように生きてるわけであって、受身でもなんでも、」
「そうだな、お前はそう言うだろう。だが、俺の時間はおそらくそこで止まっているんだ、赤也」

柳の言葉に、赤也が瞠目する。「それって、どういうこと?」あっけにとられたような声が落ちる。

「受精の段階では他発でも、十月十日(とつきとおか)が過ぎて生まれおちてしまえさえすれば、人は意思を持ち、病などの強制的な要因がない限り、命は意思の隷属下につくのが普通だ。生かすも殺すも自分次第、という言葉があるだろう?そういうことだ。だが、俺はおそらくその段階のずっと前、それこそ、赤ん坊の頃からずっと、意思が命の後ろ側にあるままなんだ。妄想じみたことを言っていると思うか?しかしそれが事実だ。証拠に、今、俺の心は平らかだ。ゲームが始まる前も後も、変わらずにずっと」

桑原、真田、丸井の死。ゲームに巻き込まれて消えた無数の命。他者の死を悼む気持ちはある。仲間の喪失を想えば、寂寞の心も哀惜の念もある。けれど、そこに自分を投影することが、柳にはどうしても出来ない。今まで失われた命と、これから消えることになる自分の命の、重さも尊さも柳には同じだ。自虐的になっているわけではない。死にたがっているわけでも、自棄になっているわけでもない。ただ、他の多くの人々に比べて、柳には世界が遠い。それだけだ。



「俺は、4番目のパイロットに選ばれて、よかったと思っているんだ。1番め、ジャッカルのときに選ばれていれば、俺では町を守るには意思が足りなかったろう。2番目、弦一郎のときに選ばれていれば、俺では立海を潰され、ドラムに乗りあげられて終わっていただろう。3番目、丸井のときに選ばれていれば、俺ではこちらの宇宙を守り切る覚悟が、あの時とっさにつかなかっただろう。俺は、4番目でよかったんだよ、赤也。500億の人間の命が、俺の挙動にかかわっている。それくらいの大義がなければ、俺にはおそらく戦いの自覚が遠いままだった」



柳は安寧していた。本当に、心の底から、4番目のパイロットに自分が選ばれたことに。笑うことも泣くことも、怒ることも嘆くことも、知らないわけではないのに、柳蓮二はそういう男だった。自分のそうした性質が、他者を困惑させるどころか、おそらく悲しませるということをも柳は知っていたけれど、彼は自分に正直な人間だった。どこまでも。

きっと、切原は理解しないだろうと思って、始めた説明。想像したとおりに、切原の表情はどんどん歪んでいく。確率通りだ。合流したはじめのころのように、怒ったわけでも、自暴自棄のように笑うのでもなく、今の彼の顔はただひたすらに、泣くのを堪える子どもの顔だった。「あんたってほんと、むかつくし、ひどい人だね、」と、がらがらにかすれた声で吐き出された慟哭。くるくると変わる、切原の表情。感情。生まれおちたその瞬間のまま、時間の止まってしまっている柳のことを、必死になって追いかけたという彼。「あんたにニンシキしてほしかった」「あんたをめちゃくちゃにしたかった」。切原の叫びは、おそらく凍りついたままになっている、柳の時間への宣戦布告であり、咆哮だ。柳に得られないものを、抱えきれないほどに持っているのが、切原赤也という少年だった。




(ああ、だから、俺はお前といるときにいつも、少し世界を近くに感じられるような気がしていた)




無邪気な笑い声、残酷なほど正直なテニス。勉強おしえてくださいと、情けない響きで駆け込んでくる昼日中の図書室。書庫のそばの小さなテーブルに陣取る柳のもとに、がたがたと追加の椅子を引きずってやってくる癖毛の子ども。わかってるくせに、わかっててそういうこと言うのがむかつく、と、柳を糾弾した少年の言うとおり、柳はすべて知っていたけれど、知らないふりをしていた。コックピットに選ばれた切原の椅子――青い布張りの木のそれ――が、あの図書室の椅子であったこと。あんたが好きだと全身で叫んでいた、正直者で、柳にとっては世界そのものな子ども。




「ねえ、いかないでよ……」




うつむいて、ぼろぼろと涙を流す切原の正面で、柳はたたずんだままでいた。手を差し伸べることも、謝罪することも、彼はしない。そのどれもがますます切原を追い詰めるだけであることをも、柳は知っていたからだった。やがてふたりのもとに、黒いバンが停まる。ぼくらの世界の夜明けまで、あと、5人。












(to be continued…)