状況が、なにひとつわからなかった。瞼を押し上げた先に見えたもの、白く、ちらちらと、花のような、光。頬に落ちる、冷たい、けれど瞬きひとつの間にゆるりと溶けて、消えてしまう。水になって。 ああ、これ、雪なんか、と自覚した瞬間、胃の腑を突き上げるような焦燥感にさいなまれて、跳ね起きる。あたり一面、真っ白の大地。頭から、肩から、花ひらくように雪のつぶてが音もなく落ちて、まざって消えた。
(――ここ、何処なんやっけ)
焦燥感は、一瞬だけ爆発のように立ち上り、けれどすぐになりをひそめて落ち着いた。思考が、ぼんやりする。ここは何処なんだっけ。自分は、一体何をしてこんなところで寝そべっていたんだっけ。思い出せない。ただずいぶん長い間、ここにひとり、こうしていた気がする。手足は冷えて、かじかんでいるのに、感覚は妙に冴えていて、なんだか世界は自分とひとつだ。空をあおぐと、天の上からあとからあとから、散る散るみちる、雪の花。しんしんと、ただそのかすかな存在感だけをもってして、あたりは白で染まっていく。 不意に、ふわ、と自らの顔に影がさした。自分以外の存在の、感覚。驚いて、視線をやると、いつからそこにいたんだろう、少年がひとり、抑揚のない無表情で佇んでいた。……誰だろう?髪と瞳は、夜を切り取ってそのままはめこんだような黒。濡羽玉、というんだろうなあ、と思う。年の頃は、おそらくは14か、15か、成人して間もない頃合だろう。立っているのだから、彼のほうが座り込んでいるこちらを見下ろしているはずなのに、じっと睨むように、まるでこちらが見上げられているような印象を受ける。そろそろと、こちらをうかがうようなまなざしに見えるのに、どこかに射抜くような眼光の鋭利さが不思議な少年だった。色素の薄い耳殻を覆うように、いくつもの色鮮やかなピアスがはめこまれている。ぼんやりと見上げていると、少年は小さく、かすれた声で、「謙也さん」、と誰かの名前を呼んだ。呼びかけられているのだから、それがきっと自分の名前なんだろうと思うのに、なんだかどうにもぴんと来なくて、自然と表情は釈然としないものになる。そうだ、自分は、――自分はいったい誰なんだっけ。名前はなんというんだっけ。何も思い出せない。頭にぼんやりかすみがかかって、重くて鈍くて霧があつくて、もう探る気にもならなくなる。
少年は、反応しない自分に向かってもう一度、「謙也さん」、と呼びかけた。どうにも反応しようがなくて、眉を寄せると、こどもは淡々と、「俺が、わかりませんか」、と落ち着いた声で問い掛けてくる。素直に「わからない」と答えるのも申し訳がない気がして、けれど他に答えようもなく、視線をさまよわせると、少年は納得するように小さく頷いて、かすかにほほえんだ。「そうなんや」、と。口の端を持ち上げるだけの、ぎこちなく、本当に小さくてさやかな。けれど、どうしてなんだろう、ひどく胸がいたい。この子にこんな風に笑わせてしまったことが、つらくて苦しくてしょうがない。何も覚えていないはずなのに、この子のことを知らないはずなのに、それでも突き上げるように、絞られるように痛むもの。また、じわじわと焦燥感が這い登ってくる。
「あんたが、全部忘れてもうても。俺んこと、覚えてなくても」
少年が、ふいに呟く。笑顔はもう消えて、また淡々とした、抑揚のない無表情だ。けれど、視線はまっすぐに自分を見つめている。
「何があっても。それでも、俺は、あんたと行く。俺にしか、出来へんことやから」
小さな、声なのに。言葉の向こうに込められた、信じられないほどの強さに満ちた響きに、少し驚く。口を開きかけて、けれど何といえばいいのかわからず、眉を寄せて俯くと、少年は静かな声で、「だいじょうぶ」、と言い切った。自分の狼狽が見て取れたのか、それとも――彼自身が自分に言い聞かせているのか。「あんたは、何も心配いらん。心配とか、気遣いとか、なんやそんなん、あんたに似合わへんし」
「……お前は」 「なんすか」 「お前は、誰や?俺んこと、知っとるん?」
尋ねると、少年はしばらく黙って、そっけない声で、「連れ」、とだけ答えた。腑に落ちない顔をしたこちらに、かれは肩を竦めて、皮肉っぽいまなざしになる。
「俺は、あんた以上にあんたの味方の、ただの旅の連れっすわ。――せや。本当にただの、旅の連れ」 「……旅の連れ」 「別に、無理に思い出さなくてもええんやないすか。俺はあんたを知っとるし、あんたが記憶を、…取り戻したいっていうんなら、協力だってしてやりますわ」
少年が、不意にこちらに手を伸ばす。立ち上がれ、と言われているのだと気が付いて、少しだけ逡巡したあとに、手を取った。線の細い見た目から想像するより、ずっと力強く引き上げられて、雪の原に立ち上がる。少しだけ、足許がふらついたけれど、歯に力を入れれば、自分の足が強く、地面を踏みしめる感触。勢いで、掴んだままだった少年の手をも強く握ってしまい、当の少年のほうが気まずそうに視線をさまよわせたので、あわてて腕を放した。す、と、体温が遠ざかる。拍子に、ふと、さきほど少年が自分に向かって呼びかけた、名前のことを思い出して、あ、と声をあげた。少年が、怪訝そうにこちらを見る。
「なあ。お前、さっき俺んこと、謙也って呼んどったけど。それが、俺の名前?」 「……せや。あんたは謙也。忍足謙也っちゅーんが、あんたの名前や」 「おしたり、けんや…」
与えられた情報をもとに、記憶の海をたぐるけれど、相変わらず頭には鈍重な霞がかかって、思うように思考が働かない。気難しく顔をしかめた自分を、少年はいくらか可笑しく思ったのか、「変な顔」、とぼやいてかすかに笑った。今度は、あの胸をかきむしられるような切ないものではない、自然に湧き上がった、こころ穏やかなそれだ。なんとなく、安堵してこちらが笑うと、少年は今度は瞠目して、……そうして小さくうつむく。そのしぐさがなんだかまた、悲しそうで、さびしそうで、ふいに自分は――謙也は、かれが本当に自分の旅の連れだとするなら、どういうわけだかわからないけど、自分は綺麗さっぱりかれのことを忘れていることになるわけだ、というわけに思い至った。 そう、どういうわけだからわからないけど、自分はどうやら自分のことがわからなくて、名前さえもわからなくて、いわゆる記憶喪失、というやつらしい。本や漫画で見たかぎり、記憶喪失はなにか外因的な要素があって起こるものだというけれど、それがなんだっていうんだろう。例え何か大きな事故とか、事情とか、そんなものがあったとしても、それで謙也がかれのことを忘れていい道理にはならない。自分がかれの立場だったら、どうだろう。例えば今まで旅をしてきた仲間が、――友人が?急に自分のことを忘れて、何もわからなくなってしまったら。きっと、傷付くんじゃないだろうか。
「あの。…なあ。ごめんな」
口をついて出てきた謙也の唐突な謝罪に、少年は驚いたようだった。ぱち、ぱち、と瞬いてから、ぎゅ、と機嫌を損ねたように眉を寄せる。
「なんで、いきなり謝られなあかんねん」 「やって、お前、俺の旅の連れやったんやろ。それなんに、忘れてしもて、ごめん。なんでこんなことになってんのか、正直なんもわからんけど……わからんようになってしもて、ごめんな」
頭を下げる。少年は何も言わなかったけれど、少し慌てたらしく、下げた頭の上で、狼狽する気配があった。「あんたがそんなんする必要、ない。顔上げぇや。気まずいわ」、と言われて、ようやく顔を上げると、少年は少しだけ眉を下げて、何かに耐えるような表情をしていた。まるで、ともすれば泣き出しそうな。狼狽が、謙也にうつる。
「ど、どないしたん?」 「――別に。どうもせえへんわ、あんたにとっちゃ。あんたって、なんでそうなんすか?自分のことより、人んことばっか気にして。あんたが俺に謝る必要なんか、あらへん。あんたは誰にも、謝る必要なんかないんや。今までも、これからもずっと」
つらつらと、流れ出すように語る少年の声には、抑揚や感情がおさえられた口調のぶん、鬼気迫るものがあって、謙也は圧倒されて黙りこむ。そんな謙也に気が付いたのか、少年はややもすると恥じるように口を閉じて、くる、と踵を返した。「悪いと思うんなら、」かすれて、かすかに震える声が、背中を向けた少年から投げられる。うん?と問い掛けると、背中を向けたまま、
「悪いと思うんなら、絶対に俺から離れたらんでください」 「……離れる?」 「深い意味なんかあらへん。ただ、あんたはセッカチで、どこ行ってもふらふら勝手に行ってまうから、…探すの面倒なんやから、絶対俺から離れたらんでください。どこに行くにも、俺の目の届くところにいなきゃあかん」
少年の声は、始終淡々としていたけれど、どこか必死で切実で、懇願のような響きさえあって、謙也は目を瞠る。返事が出来なかった謙也にじれたのか、少年がこちらを振り向いた。仏頂面だったけれど、ひどく真剣で、まなざしはやっぱり、うかがうような睨み付けるようなそれだった。
「約束してや」
強く、請われて、謙也はなんとなく、この子には自分がついていてやらなければいけない、と、そんなことをぼんやり考えた。おかしな話だ、記憶を失って、おぼつかないのは自分のほうなのに、どうしてそんな風に思うんだろう。見たところ、少年はとても落ち着いていて、冷静で、判断力もあるような、しっかりした印象を受けるのに、――だけど謙也がいなくなってしまえば、この子は一瞬で駄目になってしまうような気がする。そんな気がしてならない。 謙也は、頷いた。不安にさせてはいけないので、声にも出して、わかった、と言った。少年が探るような目でこちらを見上げてくるので、謙也はなるべく強く、はっきりとした声で、「約束する」、と答える。
「約束する。俺はお前と一緒に行く。記憶取り戻すには、お前と一緒におるんがいちばんええんやろしな。……せやから」
言葉を切ると、少年が不安そうに瞬くので、謙也は笑った。近寄ると、身長差が思いのほか大きく、少年の体はひどく痩せてたよりなげだ。小さな子供を相手にするように、その頭にてのひらを乗せて、撫でると、少年はびっくりしたように瞠目した。虚をつかれると少し、年相応に幼げな印象になる。
「せやから――お前の名前、教えてや?忘れてしもて堪忍やけど、さっきから、お前んこと呼び辛うてかなわんねん」
謙也が肩を竦めてそう言うと、少年はきょとんとしたまましばらく瞬きを繰り返していたが、やがてまた最初の落ち着いた無表情に戻って、小さな声で、「財前光」、と端的に答えた。ぱし、と、面白くなさそうに撫でていたてのひらを払われて、背中を向けた彼は、もういちど繰り返す。
「財前光。それが、俺の名前や」 「ふうん、光、か。ええ名前やな」
光。倒れていた謙也が目を開けて、最初に視界に入ったもの。思い出しながら笑って言うと、少年は背中を向けたまま肩を揺らして、小さな声で、「あんただけがいつも、そんなふうに言うんやな」、とぼやくようにつぶやいた。そのまま、首だけで促されて、少年――財前が先に立って歩き出すのを、謙也もなぞるように歩き出す。どこまでも白く、遠く、長い雪野原のはるか向こうには、気付かなかったけれど小さな街の気配があって、かすかなあかりがともっていた。どうやら目指す先はそこらしい。なるようになるか、と思い至って、謙也は数歩先を行く、財前の黒衣の背中を見つめる。黒く、小さな姿を隠すように、白く、花のような雪のかけらが散る散るみちる。ふと、脳裏を電波のようによぎる、誰かの言葉。思い出せない。どうしても、思い出すことは出来ないのだけれど。
(お前がおるから、世界は駄目になるんや。――せやけど、お前が悪いわけやない)
ぎく、とした。また、胸を駆け上ってくる焦燥感。いや、この感覚は、――罪悪感、に近い。なにが、一体どうして、自分は。
(お前が悪いわけやない。悪いんは全部、)
「謙也さん」
呼ばれて、は、と顔をあげる。財前が、無表情にこちらを見ていた。けれど、漆黒のまなざしだけが頼りなげに揺れていて、謙也は慌てて、頭を振って子供の横に並ぶ。じっと、うかがうように見上げられて、謙也は出来るかぎり余裕のある表情を作って、そうして笑った。何もわからない今だからこそ、すぐそばにいるこの子を、まず安心させてやりたい。自分がそばにいればいいと、そんな風にこの子が言うなら。
(俺はきっと、間違ったりはしてへん)
たとえばそれが、かりそめのやすらぎだったとしても
(気が向けば to be continued…)
あとがき
同人ゲーム「花帰葬」パロの謙光でした。玄冬はあまり謙也くんぽくはないけれど、花白の財前くんぶりがパネくてついカッとなって書いた。全部パロるのはあれなので、おいしいとこどりでシリーズ化して書け…たらいいな…。なにはともあれ、お読みくださりありがとうございました!
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