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夢をみているのだと思った。 それはうつくしい夢でかなしい夢でなつかしい夢でいとしい夢で。 はかなくて、さみしい夢をみているのだと。 「柳生の坊ちゃん」 あまい声は私の耳に届きその響きは私の心で燻り続けている感情に訴えかける。 夢をみているのだ。 これは夢なのだ。 私はふらふらと覚束ない足取りで声の主に近付く。 「坊ちゃん」 あの時よりも、ずっと幼い姿で。 あの時よりも、少しばかり高い声で。 鳶色の瞳とくらくら美しい銀の糸。白っぽい肌はやわらかい。 私は知っている。 忘れようとした訳ではない。努めて思い出さないようにしていたのだ。 夢をみているのだ。 でなければ、こんなーーー。こんな。 叫びは咽喉に張り付いて声にならなかった。 夢中で腕に抱いた体はやはりやわらかく、体臭はあまやかで。 強く引き寄せたせいで小さな肢体の袂から何かがふわりと落ちた。 ふと視線を投げると鮮やかな紅。 つまくれない。 『ふれないで』 ああ、やはり触れてはいけなかったのだ。 眺めるだけに留めておかなければならなかったのに。 私はどうしても欲しかった。 地に落ちた花は在りし日の記憶を呼び覚ます。涙に歪んだ視界にも鮮やかな紅は、決してぶれずに私を捕えた。 箱庭のような家族だ。見掛けはたいそう美しく誂えているその実は、がらんどうの家族。 皆とっくに気付きながら誰も何も言わない、大根役者揃いの一座のように。 久方振りに跨いだ敷居は高くも何ともない。 隅々まで行き届いた手の入れように、母がこの家にどれだけの執着を抱いているのか知れる。 どうせ居ないのだと知りながら無言で父の書斎に入った。 父の書斎はいつ見ても整然としていて彼がいかに面白味の無い男かよく判る。 机には塵ひとつ積もっておらず、恐らく毎日のように掃除されているのだ。主が不在なのに律義に母は書斎の手入れを怠らない。 まるで、いつ帰って来てもいいように。 「御免ください」 私の思考を断ち切ったのはここまで届く男の声。 それはえらく間延びした、聞きようによっては暢気とも言える声だった。 「柳生教授にお目通り願いたく参りました」 母屋でなくこの離れから入るのは基本的に父の知り合いだ。こんな真昼間から一体誰が。 私は自分が出なければ誰も対応しないことに気付き、仕方なく書斎を後にした。 迎えた声の主は随分若い男で(私と幾分も違わないのではなかろうか)身なりこそ書生だが、髪は白っぽく瞳は鳶色、肌は子供のように木目細かい。 日に焼けていないところを見ると、出歩かない種類の人間だろう。異国の血が混じっているのか。 私は彼を不躾に眺めていたのかも知れないが、彼は慣れているのか私の視線を気にも留めずに口を開いた。 「…学生さんですか」 「ええまあ。あなたもでしょう?生憎ですが教授は留守です。明日か明後日またおいでなさい。運が良ければ会えるでしょう」 「ご子息でいらっしゃる…?」 「はい、見ての通り。似ていませんか?」 「あまり似ていらっしゃらないから、てっきり単位の無心に来なすったのかと」 書生の口調はひどく明け透けで、おまけに子供っぽい。 しかし不愉快にならないのは彼の日本人離れした容姿のおかげだろう。 「似たようなものだ。私も小遣いをせびりに来たので。父とは大学で?」 「はあ、お世話になっとります。…坊ちゃん、これを」 書生は手荷物を私に寄越した。 丁寧に包まれた袱紗を開くと、中から水菓子が顔を出す。 「やあ、ありがとうございます。せっかく訪ねてくだすったのに申し訳ありません」 「気にせんでください。わしゃあ運が悪かったようじゃけぇ。また来ます」 「あなた、どこの人?」 急に訛りが飛び出したので私は興味を引かれて彼に尋ねる。 彼は何をきくのだというふうに、きゅっと眉根を寄せた。 「お父上の学生です」 「ああ、そうだった。そうでしたね。単位の無心でないなら、そう、仕事のつてでも?」 黙り込むところを見ると、それも違うらしい。明け透けな物言いをするくせに変なところで口が堅い。 父とは大学で出来ない話をしに来たと知ると、ほんの少し同情心が湧いた。 「明日またおいでなさい。ね、そうなさい。父も大概だ。約束をすっぽかすなんて、よくもまあ教授が勤まる」 「わしが勝手に押しかけたのです。お父上は悪うない」 身内の軽い冗談を書生はまじと真っ向から受け止める。その口調はやはり子供じみていた。 「へえ。面白い書生さんだね、あなた」 帰りますと言って身を翻した彼の髪は長く、紐で括り付けてあった。 頚り紐は紺混じりの紫で、そこだけがたいそう垢抜けていた。 書生にもらった水菓子を母屋へ運ぶ途中の廊下で母と出くわした。 前から歩いて来る私を認めた母は嬉しそうに表情を崩す。美しい母だ。 「比呂士さん、来てらしたのね…それは?」 「お父様のところの学生が持って来たのです、もう帰りましたが。…留守なのはまた、あすこに?」 母は美しい眉をひそめた。その哀しい顔すらも美しいのだ。 母が無理を通して笑う姿は、まるでこの世で一等弱い生き物のようで胸が痛む。 父が妾宅に行っている時の母の顔だ。もう何度も見ている。 「わたくしが、もっと努めていれば…」 「お母様、そんなことはありませんよ。お父様のあれは病気なのです。直ぐにさめる。芸者だか何だか知りませんが、唯のたわぶれだ。悪い夢を見ていなさるだけです。夢ならば必ずやさめましょう」 「あなたはいい子ね」 少女のようにふんわりと笑って母は私の手をそっと握った。 白く細い指先は弱々しくて頼りなくて、せんの書生の襟から覗く首筋を思わせた。 「またお留守ですか」 三度目の正直とはよく言ったもので、書生は目的を果たせない事実に肩を落とした。 「三顧の礼の例えもありますよ、力を落とさないで」 「このままいくと、四十一顧の礼になりそうじゃ、はぁ」 三国志に例えると彼はうまく返す。 身なりは浮ついているが中身は父の学生らしい。 白い彼が暑さに耐えてやって来たのに空振りとは、あまりにも酷なので茶屋に誘うことにした。 彼はとぼとぼ歩き足元に黒い影を落とす。 影はあるのだな。 やくたいもない馬鹿げた感想を抱きつつも茶屋の暖簾をくぐった。 「食べないの?」 運ばれて来たアイスクリンに書生は何故か目を丸くした。 私は遠慮せずに匙を入れる。さくりと氷の粒の感触がした。 「…坊ちゃん、坊ちゃんはお幾つで?」 「ああ、十七。見てこの汗。全く嫌になる。あなたは幾つ」 「…二十二です…学生服を着ていなさるんで、てっきり同輩かと…」 「そんな、まさか。あなたが幼いのですよ。学生服は新しいものを誂える金が無いだけです。帽子も袴も薄汚れて。言ったでしょう?小遣いをせびりに来たと」 「はあ、坊ちゃん一高の学生さんで」 書生は一応感心して見せた。 十七にもなれば坊ちゃんなどと呼ばれないのだが、そこは気にしないらしい。 彼はまだ、はあ、だの、一高のねぇ、だの気の無い感嘆を続けている。 「あなたも帝大でしょう。末は博士か大臣か。果ては恩賜の時計を自慢するのじゃないかな」 「は!まさか。そげなことにはならんでしょう」 謙遜ではない。どこか諦めたような態度が気になった。 見れば額に僅かばかりに汗をかいている。彼も私と同じく血が通った人間なのだと思うと、不思議に手を伸ばしていた。 白い額に手を当てる。 「あなた、汗をかくんですね」 書生はぴいんと背筋を正して私の手を受け入れた。 首筋から頬までがさあっと朱に染まり私をねめつける。 坊ちゃんは意地が悪いのぅ、と尻窄まりの言葉が幼くて、私は声を上げて笑った。 愉しそうだなと言うのは同輩の柳だ。 目はやたらと細いくせに他人の変化には目敏い。 「女か」 うっすら目を開けて、どうだ図星だろうという顔をする。 彼のなにもかもお見通しだと言いたげな態度だけは、正直苦手だった。 「どうしてそう思う?」 「貴様が浮かれるなど滅多に拝めんからな。どうせ女だろう」 「そんな短絡的思考は如何なものかな。統計学を専攻する者の言葉とは思えないね」 一撃で彼を黙らせるいい言葉はないものだろうか。 私は彼に対する時に口では勝てた試しがないので、毎回辟易する。 柳は絣模様の袂に手を入れてそれらしく警告した。 「あまり入れ込むのは良くない。身を滅ぼすぞ」 「お気遣い感謝しますよ我らが寮長殿」 メルシボクゥと仏語で胸に手を当て一礼すると、柳は呆れたように天を仰いだ。 確かに私は浮かれているのやも知れぬ。 しかしそれは戀という軟派なものでなく、純粋に毛色の変わった人物への興味だ。 その違いが柳に解る筈もなく彼からすれば私は唯の逆上せる同輩だろう。 くつくつ笑う私を柳は愚か者めと詰った。 ほと、ほと、と夜道を歩くのは私の密かな愉しみだ。 こうして度々寮を抜けては夜の散歩に出るせいで女にうつつを抜かしていると思われているのだろうか。 それでも構わない。 あの柳生教授の息子は夜な夜な徘徊する碌でなしーーー。 母の耳に入らなければ、父の面目を潰すことなど毛ほどの痛みも感じない。 父は帝大教授という立場でありながら高利貸しという副業に就いていた。 山積みにされた借用書を傍らに教鞭を振るう。高額な利子を取り立て払えなければ家財没収。 どうかご勘弁をと取り縋るのが、恐面のむつけき男だろうが幸薄げな人妻だろうが枯木のような老人だろうが容赦はしない。 いついつが期限です、と穏やかな表情で冷酷無比に言い放つ。 父の仕打ちが一家離散の原因になっただの娘を売りに出しただの、幼い時分から耳にしていれば父を厭うには充分だった。 母を顧みず妾を囲うにも関わらず父はいつも家族には優しげだ。そして嘆く母は父がほんの気まぐれに帰宅すると、それはそれは喜ぶのだ。 (どっちが本宅でどっちが妾宅だか) 一番嫌なのは、それでも父をまだ心の何処かで待っている自分。 いくら冷酷な金貸しの顔を持とうが身内にだけはきっと特別に違いない。 甘えた感情が未だ自分の中に燻り、決して捨て切れぬのだという事実。家族の情を彼に求めている。 月のない夜は星を頼りに道を歩く。 ぼんやりとした月より、音もなく滲む星が好きだった。 この辺りは商家が多く昼間は人の出入りが目まぐるしい。私は寮住まいなので詳しくないが、幾度か通ったことがある。 不意に路地から人影がふらりと踊り出た。 「…坊ちゃん?」 夜目でもわかる、白っぽい姿。 声は小さく、しかし確信を持って私を呼んだ。父の書生だ。 「坊ちゃん?ほんに?坊ちゃんかの…?」 じりじりと間合いを詰めて書生は私に近付いて来る。 近くで見た顔は驚きのあまり鳶色の瞳を落っことしてしまいそうで、可笑しくて私は口許を拳で押さえた。 「先日は坊ちゃんにアイスクリンをご馳走になって楽しかったなんて考えちょったら、まさか、」 「あなた、この辺に住んでるの」 「ええ、直ぐそこの商家に下宿しとります」 書生は振り返り後ろを指差した。その先は暗くて何も見えない。 「こんな時間に出歩くなんて誰か想うひとがいるのかな」 からかうと書生は少しだけ哀しそうな顔をして見せる。 それは父を待つ母の疲れ切った笑顔にも似て、思いのほか胸を突かれた。 「なァに、夜の散歩も悪うないと思っただけのこと。坊ちゃんこそ何処ぞの誰ぞの処にお忍びで?」 意趣返しのつもりか書生はわざとらしく目を細める。 その面憎さが子供のようで、まるで帝大生には見えない。彼は私を同輩だと思ったらしいが、私からすれば級友のように感じる。 外見は勿論のこと所作が幼いのだ。 「…そうだと言ったら?」 「驚きゃあ、せんぜよ。坊ちゃんはたいそう立派じゃもの。女子(おなご)が惚れるんは当然じゃ」 父の仕事柄おべっかには慣れている。昔から私に取り入って父に近付こうとする輩は掃いて捨てるほどいた。 彼もその一人と変わらないのだろうか。 そう思ったら急に落胆とも失望とも言えぬ、不愉快な気分になった。 「惚れる、だなんて蓮っ葉な言い方は好かないな。学士になろうというのなら、もっと言葉に繊細にならなくては」 尤もらしく言ってやれば書生は後の言葉など忘れたように頭をわしわしと掻いた。 「坊ちゃん、寮まで送りましょう」 「平気です。夜道は慣れているから。あなたも早くお帰りなさい。夜盗に目を付けられる前に、ね」 ですが、と書生は食い下がる。ひょっとすると子供扱いされているのだろうか。何となく面白くない。 私は書生に背を向けて来た道を戻り出した。 坊ちゃん、という頼りなげな声と僅かに擦れる下駄の音。 それを背中越しに聞いても私は振り向かない。 書生がどんな顔をしているのか想像してみても、父を待つ疲れた母親の顔が浮かぶのだった。 迎えた母から一足違いで父は出て行ったと聞かされて、やれやれと嘆息する。 ごめんなさいね、と母は申し訳なさそうに瞳を臥せた。 「貴方が来ると知っていれば、もう少しお引き留めしていたらよかったわね」 でもお父様は直ぐにでもお帰りになりたいようだったから。 か細い声で力無く呟く母の臥せた睫毛が震えている。 帰る、なんて。父が帰る家はここではないのだ。もう一人の女が待つ場所。 それが父にとっての家であり、帰る場所なのだ。待つ女がここにもいるのに。 「お母様、そんなふうに言わないで下さい。お母様にお会いできて私の目的の半分は叶っていますから」 母の着物の襟を見つめながら告げれば、漸く彼女は顔を上げた。目の淵にはうっすら涙が溜まっている。 「貴方は本当にいい子ね」 諦めたように笑う母は同情を誘う。 元華族の娘はこんな時どうするべきか解らないのだろう。 父を責めることも相手の女を詰ることも黙って見過ごすことも出来ない。 ただ、ひたすらおろおろするだけ。 本当は母は私に助けを求めているのだ。父を呼び戻してくれと。言われずとも解る。 しかし私には出来ない。 父は一度だけ、私を妾宅に招いたことがあった。 質素な外観で内装も簡素なものだったことを覚えている。 中年の側女(そばめ)が一人いて、彼女が家内を切り盛りしているらしかった。 元芸者だという女は柳のようにたおやかで。 もっと逞しい女性を想像していた私は拍子抜けした。 不義の相手の子供に会うこと自体、肝が据わっている証拠なのだが彼女は堂々と私を迎えた。 それもその筈だ。 市松人形のような少女が父を「ととさま」と呼んでいたのだから。 父が少女を抱き上げ、それを優しく見守る女。紛れも無い家族の姿が、そこにはあった。 父は帰る場所を選べるのだ。どちらにも妻がいて子供がいる。気分次第でどちらも選べるのだ。 母は妾が産んだ少女の存在を知っているのだろうか。そこまでは聞けなかった。知れば母の苦悩は深まるばかりで軽くなることは決してない。 待つ女は憐れだ。 同じに待つ女なのに、妾宅に住む女性は母より遥かに幸福そうだった。 「お情けを掛けていただけるだけで充分です。それ以上に何を望みましょうや」 初めて向かい合わせに対面した時、頭を下げた後で彼女は硝子を弾いたかのように透き通った凜とした声で私に言った。 質素な誂えは元芸者とは思えない。 美しいが母とは違う。母はもっと娘のような、世間とは隔絶された乳母日傘で育ったひとだ。 話す声も笑い声も鈴が転がるようで私には母と言うより年が離れた姉のような気さえしていた。 彼女はその母とは違う、地に足が付いた芯からの強さを感じさせる美しさだった。 その時思った。 母が彼女に会えば恐らく打ちひしがれて参ってしまうと。 父を取り戻したいと切実に願う母の望みを叶えてやりたくとも、それは余りに遠い。私はそれを知っている。 母も薄々は気付いているだろうが決して認めないだろう。 元華族の自尊心を捨てきれないのと同じように。 父と母の温度差は、どうしようもないものとして私の目に映る。 母が私に一縷の望みを賭けていても私は無力だ。現実は残酷に眼前に横たわっていた。 まだ日が暮れない内に立ち寄った書生の下宿は、老夫婦が営む在り来りな素人下宿だった。 二言三言、言葉を交わすと小柄な老婦人は皺が深い顔をくしゃりと歪めて、におうさんに用がおありかい、と枯れた声で何度も頷いた。 書生の名はにおう、というらしい。頭の中で仁王の字を当て嵌める。 彼は二階を宛がわれているようで、私はすすめられるまま階段を昇った。 襖に手を掛けて何と声をかけようか迷う。 教授の息子だと名乗るのは場違いな気がして、不躾だと知りながらも私は無言で襖を開けた。 狭い部屋に小さな机。万年床かも知れぬ煎餅布団に書生は転がっていた。布団の周りには教本やノートブックが数冊。 背の低い和箪笥の上にも幾らか書籍が積み上げられている。 書生は気怠げに頭だけを動かして私を認めるとひゅうっ、と喉を鳴らした。まるで幽霊でも見たかのようである。 「坊ちゃん…」 「こんにちは、突然にお邪魔して驚かせてしまいましたね。ああどうぞ横になっていて。あなた、病人のようだ」 真実書生の顔色は悪い。肺病持ちのように白く、陰欝な感じがする。 私は彼の枕元に座って白い顔を覗き込んだ。 「暑さにやられでもしたのかな、あなたは色が白いから」 書生はく、と唇を噛んで私を恨めしげに睨む。 要らぬ世話だと思ったのかも知れない。 「それとも夜ごとの散歩が祟ったのかも知れませんね。階下の御婦人が夜の外出が多いと心配していたから。勤勉な帝大生ともあろうに、いけない人だ」 それは嘘だった。 引っ掛かるかどうかは解らないが、私はカマをかけてみる。 私の言葉に書生は口の端をシニカルに吊り上げて笑った。 「…御婦人やて?あんな婆さんに、坊ちゃんはほんにお優しい。なに、唯の暑気中りやき心配要らんです」 「水を貰って来た方が良さそうだ」 腰を浮かせかけた私を書生の白い腕が押し留める。 彼は乾いた唇を微かに動かして、どうかこのまま、と言って目を閉じた。 私は言われた通りに黙って側に付いている。ぐるりと部屋を見渡しても、特に目を引くものは無い。簡単に言うと物が少ない部屋だ。 こんな狭苦しい部屋で勉強が出来るのだろうかと訝しんでいると、書生が掠れた声で教授は、と言った。 「教授はまだ、お戻りにならんのでしょう」 「ええ、息子の私でもまだ会うことが叶わない。何処で何をしているのでしょうね」 おおかた、妾宅で爛れた毎日を過ごしているのだ。 まさかそんなことを書生が知る筈も無い。彼の前で父は一端の教育者なのだから。 「お急ぎなら私が言付かることもできますよ?」 「いいえ!」 私の一言に書生は目を剥いて感情を現わにした。 がばりと起き上がり、私の肩をきつく掴む。 「そげなことォ、しちゃおえん。わしが、わしが直接教授にお話しします。だから坊ちゃん、」 掴まれた肩に爪を立てられ、私は痛みに顔をしかめた。それほど強く肩に食い込む。 病人のごとく横たわっていたくせに、書生の目はいやにぎらぎらと穏やかでない。 その剣幕に私は少し気圧された。 「わかった、わかりましたから。そう興奮しては身体に障る。さ、横になってください」 まるで熱に浮かされたかのような様子の書生を何とか落ち着かせようと、私は上から押さえ付けるように布団へ返す。 思わず手を取ったら、ついと指を絡めて来た。 暑気中りだと力無く笑った割に指先は冷たい。熱を奪われているのか。 「私たち、同じく父に用事があるのに叶わない上に顔を合わせてばかりいる。可笑しいね、あなたは父より私に縁があるのでしょう」 「…御子息にお会いしても、どうにもならん」 「つれないね、あなたは酷い人だ」 絡めた指を軽く引っ張ると、書生は僅かに眉をひそめた。 その顔が幼い上に芝居の舞台で見た女役者のようで、いじらしい。 床に着いた彼からは病の気配より女の気配が漂っていた。 「…坊ちゃんはお綺麗だ。初めて会(お)うた時、今まで見た誰より綺麗だと思うたです」 「どうしたの、急に。綺麗だなんて男に言うことじゃないでしょうに。それこそ、あなたが想う人に言っておあげなさい」 「見かけやないです。坊ちゃんは清廉さを持っちょる。おいそれと触れられん何かを持っちょる。わしにはそれが美しく見えて、同時に少し、こわい」 「怖い?」 「あぁ、怖い。怖いのぅ」 怖い怖いと繰り返すと書生は繋いだ手を握り込んでしまった。 怖いなら手を放せば良いものを、ますますきつく握り締める。 私はと言うと、人から怖いと言われたのは初めてで彼の反応に戸惑うばかり。 少し力を入れて手を引くと、書生は嫌々をするようにむずがった。まるきり子供のようである。 仕方ないので私は書生の好きにさせておくことにした。 胎児のごとく身体を丸めて目をつむる彼を見ながら、一体私の何処を恐れるのかとぼんやりと考えた。 玄関から入ってただいま戻りましたと声をかけると、足取りも軽く母が迎えてくれた。 だいぶ暑くなってきたので薄手の大島を着付けている母の顔は綻んでいる。 ああ、そうか。 私は合点した。父が戻っているのだ。 「書斎ですね」 私の声に母は僅かばかり身を強張らせた。 そうして縋るように私を見上げる。心配そうな顔をしながらも、その瞳に何か期待らしいものが宿っている。 それが、酷く陰気だ。私は気付いている。母は私に恨みごとを言って欲しいのだ。 母の代わりに父に、母がどれだけ辛かったか寂しかったか、私の口から言って貰いたいのだ。 自分で父を責めたくない、嫉妬深い女よと思われたくないのだ。 この時ばかりは幾ら美しい母でも生々しい女の部分が露見して、醜悪に映る。私は母から目を逸らして書斎に向かった。 「比呂士さん、お父様を責めないで」 私の背中に白々しい母の台詞が届く。 貴女は息子を断罪のために利用している。 わかっていながら私は指摘できずに、聞こえない振りをして母を振り返らなかった。 入った書斎で父は煙草を喫っていた。 机の前に立ち、束になった紙を眺めている。恐らく借用書だ。 「お久しぶりですね」 挨拶にほんの少し厭味が混じる。そんな母の願いを叶えてしまう自分が嫌だ。 父は書類から視線を上げて私を見た。 その顔が幾分やつれているように見えるのは、会わない時間が長すぎたせいだろう。 「金か」 ふう、と煙を吐いて父は言った。 その言い方が下賎な者を貶るようだったので、私はついかっとなる。 自分が今手にしているものは何だ? 借用書の影に今少しだけ待ってくださいと嘆く人の姿が見えないのか? 「金が要る時は私を待たずに、ここにある物を売りなさい。どうせ全てお前のものだ、好きにしなさい」 そうやって自分ひとりだけ逃げる気か。 面倒ごとには構っていられぬと言いたげな態度が私の神経を逆なでする。 「それにしても世の中には約束を守れない人間が増えた。嘆かわしいことだ」 ばさりと音を立てて父は借用書の束を机の上に投げる。 その紙切れ一枚のせいで爪に火を燈すような生活を強いられている家族がいることを、彼は知らないのだろうか。 「何だその目は。私のやっていることが非道に見えるか?それでもお前に何ひとつ不自由させたことはない。お前が食べるもの着るもの、学費さえ不自由させたか? …まあいい。お前は好きに生きなさい。この家も何もかもお前のものだ。売るなり潰すなり、好きにしろ…ただ、お母様だけは大事にしなさい」 「どちらの、お母様ですか?」 自分でも皮肉だとは思えども、言わずにいられなかった。 生意気を抜かすなと殴られる覚悟で父の瞳を真正面から睨んだ。 父は財布から紙幣を三、四枚抜き取ると私に差し出す。 「…お前に全て任せる」 「お母様を愛していますか?」 意外だったのか父の片眉がぴくりと跳ねた。 私の目を見たまま父は唇を歪めた。 「どちらのだ?」 ああーーー。私たち家族は、とうの昔に瓦解していたのだ。 それを見ない振りを続けて蜘蛛の糸のように危うい絆を信じていた。 次の瞬間私は思い切り父を殴り付けた。父は机にぶつかり、弾みで借用書が宙に舞う。 床に落ちた一枚の借入人の名前をちらりと見遣って父から紙幣を毟り取った。 私が手にした金もまた彼らから搾取したものなのだ。 父が何かを言う前に書斎を飛び出した。金だけはしっかり握り締めて。 離れの入口で誰かにぶつかり、顔を上げると銀色の髪が眩しかった。 「坊ちゃんーーー」 余程酷い顔をしていたに違いない。 書生は白い指を私に伸ばしたけど、私はそれを払い落とした。 母も父も書生も、この家に居る人間全てが疎ましくて私は縺れそうになる足を懸命に動かした。 畦道に咲く紅い花。風変わりな形をしているそれは、点々と色を違えて咲いている。 紅もあれば薄い桃色もあり、白っぽいものまで。 同じ種類だろうが花の色は微妙に違う。 萎れた花の下に種を見つけて何とはなしに触れてみた。 ぱん。 軽い音とともに四方に弾け飛ぶ種。 ははあ、成る程。時期が来ればこうやって爆ぜるのだ。それだから群生している訳か。 物珍しくて見付けた種を片っ端から弾く。 ぱん、ぽん、と小気味良い音が立て続けに鳴って私は少し時間を忘れた。 「つまくれない」 振り返ると書生が立っていた。 そう、ここは書生の下宿だ。家を飛び出したは良いが、寮に戻る気になれずにここまで来てしまった。 手土産があれば理由など後からいくらでも付けられると思い、ソォダ水まで買って。 「…つまくれない?」 「その昔、楊貴妃が爪を紅く染めたそうじゃ。そやさけ、つまくれない。つまべに、とも呼ぶの」 「あなた、物知りだ」 「女子(おなご)に言うたら喜びよるわ」 「それはそれは、有り難いな。ご教授頂いた御礼にこれを」 私は屈んだままソォダ水の瓶を掲げて見せた。 瓶と私を交互に眺めて書生はくしゃりと笑い、顎をしゃくる。ついてこい、と。 「来や」 書生が促すも私は動くのが億劫で、黙って花を見つめる。 すると書生は私の目の高さにある花を手折った。 「ちょうどええ花瓶が手に入ったけぇ、花でも飾ってみようかの」 ソォダ水の瓶を掴んだままの手首を握られ、引き上げられる。 立ち上がったら歩くしかない。私は書生の後をついて歩く。 彼が左手に提げたつまくれないの紅い花弁が、鳥の尾羽を思わせた。 先日見た老婦人は留守のようだった。 聞けば週に何度か三味線を教えに花街まで通っているらしい。 あんなに枯れた婆さんでも三味のばちを持つと矍鑠とするーーー書生はそう言いながら目を細めた。 閉め切った部屋は暑い。 窓を開けても入って来るのは温い風だけだ。 私たちは布団の横に腰を下ろしてソォダ水を飲んだ。幾分か温くなってしまっても弾ける泡は健在で、喉をくすぐる感覚は心地快いものだった。 すっかり空になった瓶を漱いで水を半分程満たすと、つまくれないの花を挿す。 書生はそれを他には何も乗っていない机に置いた。 「先日お邪魔した時は、もっと本があったのに」 「ああ、売っ払ってしもうたのです」 「何故」 「別に理由など…ただ、そんな気分やっただけやき」 「誰かに貢いでいるの」 私が尋ねると書生は目を丸くして弾けるように笑い出した。 喉をひくつかせて、額に手を当ててひとしきり笑うと布団にごろりと横になる。 「そげに奇特なもんはおらんじゃろう」 「あなたならより取り見取りでしょう。素人娘でも玉の井でも、美少年でも似合いそうだ」 美少年ねぇ、と書生は苦笑すると私の頬に指を滑らせる。 「そうさな、一人おるようじゃ。こげな貧乏学生にソォダ水ばぁ貢いでくれて」 ゆっくりと頬を撫で眼鏡の蔓をたどるように耳の後ろを指先で擽る。 彼の瞳は何故か少しだけ潤んでいて、私を哀れんでいるようだった。 「教授の顔が腫れとったんは坊ちゃんの仕業かや?」 撫でていた指が離れ、今度は右手に寄り添うと重ねられた。 思わず拳を握ると包み込むように触れて来る。書生の手は私と変わらない大きさだ。 「…坊ちゃんはお父上が嫌いなんか?ご立派なお方やよ」 「見せ掛けだ、そんなもの。あなたは何も知らないから」 「わしは哀しい。坊ちゃんが誰かを…それもお父上を殴るやなんて、そげなことォしちゃおえん。坊ちゃんの手ェは、そげなことォするためのもんやないき」 まるで慈しむように書生は私の拳を撫でるので、決まりが悪くなって手を引いた。 書生は追うように指を伸ばしたが途中でぱたりと布団に投げ出す。 「坊ちゃん、つまくれないの種を弾いてみた?」 「ええ…暇潰しの手慰みに。不思議な色をした種ですね」 「ふ、ふ…わしもガキの頃にようやったぜよ。弾いたばかりの種はつやつや光って誰も知らん宝物に見えての。ひょっとすると、これを見付けたんは自分だけじゃなかろうかと大事大事にしまっとった。 坊ちゃん、種を取っておきんさい。いつか幸福が芽生えるかも知らんけぇの」 書生は横になったまま私を見上げて笑う。 弾いた種は白かった。それが彼の零れる白い歯とだぶる。 「幸福、ね。それはいいことを聞いた。大事に仕舞っておいたなら、あなたにも幸福が訪れた?」 底の方に少し残ったソォダ水の瓶を花の横に置いて、私も彼の隣に横になった。 仰臥している彼の隣で腹ばいになって頬杖をつく。 私が近付くと書生がくっと息を詰める音が聞こえた。 「幸福の種が詰まっとるけど、おいそれと触れちゃおえん。タッチ・ミィ・ノット。つまくれないの花言葉やけ」 「今にも弾けそうなのに?触らないでなんて、つれないね。まるであなたのようだ」 額にかかる髪を掻き上げてやれば、書生はいつかと同じように身を固くして赤くなった。 まるで初心な小娘のよう。 五つも年上のくせに私の言葉にうろたえる彼は何も知らない子供のようで、見ていて面白い。 「坊ちゃん、からかわないで」 「どうして?本当のことだよ。あなたはいつも何か言いたそうにしていても、結局何も言わないのだもの。暴かれるのを待っている、手折られるのを待っている花のようで」 書生は耳まで朱に染めてごろりと私に背を向けた。 少しからかい過ぎたかと思うが、彼の反応をもう少し愉しみたいのも事実。 「いつかあなたは私を怖いと言ったけど、今でもそうなのかな。ねえ、あなたは触れないでと言いながら手を放さなかったよね」 聞くのが堪えられないように書生は身じろいで耳を塞いだ。 震える背中は小鳥のようでこれまで出会った何よりもか弱い生き物のようだ。 そう、あの母よりも。 「…そんなに嫌がらないで下さい。悪ふざけが過ぎました。お詫びに今度、芝居を観に行きましょう。ああ、ビヤホォルの方がいいかな。でもあなた、酔ったら真っ赤になりそうだ」 「坊ちゃん」 「やあ、機嫌を直してくれましたか?」 「もうじき、ここを引き払うのです」 背中を見せたまま震える声で書生は告げた。 一瞬何を言われたか理解出来ずに、私はぽかりと殴られた犬のように固まった。 引き払う?では違う下宿先に移るのか。 「新しい下宿先も教えてくれますか」 私の問いに書生は無言で頭を振る。紫が混じった頚り紐が左右に揺れた。 その背中は私を拒んでいる。 「…私が嫌いなんですね」 「だって坊ちゃん、」 振り向いた書生の肩を引き腰に腕を回して私の体の上に持ち上げる。 彼はいともたやすく私の上に乗り上げた。 目の前には銀の髪と鳶色の瞳がある。 腰の後ろで両手を組めば、いよいよ彼の逃げ場は無くなった。 「せっかく遊びに来られる場所が出来たのに、残念です」 「…ここは坊ちゃんの遊び場かや?」 「怒らないで、そんなつもりじゃない。それなら、ここを私の居場所にしてくれませんか」 「坊ちゃんの居場所なら幾らでもあるじゃろう、学校も御実家も。わざわざ、こげな貧乏下宿を根城にせんでもええじゃろう」 ちっとも力を入れていないのに書生は苦しげに顔を歪めた。 私は上手い言葉が見当たらず、悪戯に舌を動かすばかりで。 「居なくならないで、何処へも行かないでください」 それだけ言うのがやっとだった。 こんな駄々を捏ねる幼子のような物言いしか出来ない自分が疎ましい。 しかしそれは嘘いつわり無い私の本心なのだから、ごまかしようがない。 父も母も学校も嫌いだ。 ならば私に残されているのは彼しか居ないではないか。 余りにも短絡的な消去法だが、他に思い付かない。 「あなたの名前も知らない、それなのに居なくなってしまうのですか」 「…何とでも呼んだらええです。わしも坊ちゃんのお名前を存じ上げん…いや、知りとうない。知ったら名前を呼びとうなる。呼んでお会いしとうなる」 「あなたが呼ぶならいつだって出向くのに」 唇を噛んで書生は頑是ない幼児の仕種で私を拒む。 今にも泣きそうな顔をしているくせに。 それは私が戯れに触れたつまくれないのようで、見ていて胸が痛んだ。 『ふれないで』 花言葉の通りに触れようものなら、爆ぜてあちこちに飛んでいってしまうのか。 私の手には残らないのか。 「そばにいて」 自分で引き上げた体を抱え込むようにして私の下に引きずり落とした。 彼は、あっ、と口を開けて私の肩口を掴む。 組み伏した体は服の上からでも痩せ気味なのがわかる。 「坊ちゃん、駄目じゃ、おえん、」 彼の指も声も震えている。 視線の先に彼が手折ったつまくれないがソォダ水の瓶に寄り掛かっている。 今から何をしようとしているのかわからない振りをして、熱に浮かされたように彼の袴の帯を解いた。 下宿を営んでいる老夫婦はどうやら耳が遠いらしい。 それとも学生が騒ぐ物音には慣れているのか、階下から苦情はなかった。 布団に散らばる銀の髪の一房を手に取ってみる。細くこしの無い髪は私の指の間を滑り落ちた。 解けてしまった彼の髪は意外に長く、纏めようにも逃げるように摺り抜けてしまう。 元来器用な方ではないので纏めるのは諦めて、散らしたままにしておいた。 疲労の色を濃く残して彼は昏々と眠っている。涙の跡に沿って頬を撫でても気付かぬ程に。 随分と無体を強いたかも知れないが私の心は晴れていた。 布団の中で何度も「許して」と訴える彼を離せなかった。薄い胸を喘がせて鳶色の瞳が涙の膜に覆われて、私を呼ぶのが愛おしかった。 指で唇でどこもかしこも触れて優しく揺すぶって撫でて、最後は突き崩したのだ。 細く長い甘やかな悲鳴を上げた後、彼は私に縋り付いてーーー。 これ以上思い出すと頭が沸騰しかねないので、頭を切り替えようと努める。 彼を起こさないように手早く衣服を身につけた。 身支度を整えたはいいが、この後どうすべきか私は迷った。 彼が眠っている間に出て行くのは気が引ける。かといって、無理矢理起こす訳にもいかない。 誰かと褥をともにしたのは実は初めてで、勝手がわからないのだ。 私はぼんやりと彼の寝顔を見つめた。 けぶる睫毛や柔らかな眦、愛嬌のある鼻の頭に順番に唇を押し当てていく。 最後に唇に触れようとした時、彼が薄く目を開けたので私はそのまま動けなかった。 おはようと言うにも体は大丈夫ですかと言うにも憚られる。 嫌な緊張感とともに胃がキリキリ絞られた。 「…ふっ」 くくく、と書生は裸の肩を晒して布団に突っ伏し笑う。 白く体温など無いかのような腕が私の首に絡まった。 「まったく、坊ちゃんは悪い子ォじゃ」 おはよ、と付け足して彼は私の唇を吸った。それから再び布団に潜る。 なので私も後を追うように布団に手を伸ばしたら、ぴしゃりと叩かれた。 「こら。おんしは学校があるじゃろ」 にべもない言葉に少々むっとする。 「あなただって大學があるでしょうにーーー」 「行きたいのは山々じゃが誰かさんのせいで足腰が立たん。だ、れ、の、せいかのぉ?」 恨みがましく悩ましくねめつけられては何も言えない。 ぐうの音も出ない私を見てにんまりと笑うと、彼は私の鼻の頭をぴんと弾いた。 甘えるように彼の胸に額を擦り付けると、すぐに柔らかく抱き留めてくれる。 頭を抱えられるのがこんなに心地快いなんて初めて知った。 「ここにいたい、あなたの側は息がしやすいから。他は駄目だ。陸(おか)にいても溺れてしまいそうになるのだもの」 身勝手な父も弱いくせに自尊心だけは人一倍高い母も気詰まりな級友も、私を溺死させようとする。 書生の体温や声や匂いだけが私を生かし、呼吸を楽にしてくれる。 彼の側でなら灰色の世界も愛せるような気がして。 「…坊ちゃん」 「ごめんなさい、あなたを困らせてしまって。でもこれだけは覚えていて。あなたに触れたことは、決して軽い気持ちではないと」 書生は眉間に力を込めて酷く辛そうな顔をした。 私の頬を挟み額を合わせて瞳を細める。鳶色が、じわりと滲んだ。 「どこか、具合でも」 緩くかぶりを振った鳶色から雨粒が転がり落ちた。 「…うれしい」 では何故泣くのと言おうとしたが、それは彼の唇に吸い取られ、ついぞ聞けぬままだった。 私が学校から戻るまでどこにも行かぬと約束を取り付けて、私は後髪を引かれる思いで書生の下宿を後にした。 寮に戻ると寮長の柳は渋い顔をしていたが何も聞いて来ない。 素知らぬ振りで目の前を横切る私に「愚か者め」と吐き捨てた。 授業などは少しも身に入らない。 早く彼の元へ戻って肉付きの薄い体を抱きしめたい。 独特の訛りある口調で呼んで欲しい。 帰ったら彼の髪を結わえてやろう。寝ていた時には上手くできなかったが、私の腕に彼を閉じ込めてしまえばきっと。 そんな飛び切り浮かれた想像を砕いたのは教師の呼び声だった。 「柳生比呂士、直ちに来なさい」 名指しで呼ばれて周りが少しばかり色めき立つ。 厳つい容貌の教師は咳ばらいをして騒ぎをおさめた。 眼鏡を押し上げ廊下に出ると教師は肉厚な手を私の肩に乗せる。 そうして私は父の訃報を聞いた。 急いで帰宅し飛び込んだ客間に父は寝かされていた。 顔には白い布が被さっており、彼が呼吸を止めてしまっていることが知れる。 枕元には母と黒鞄を脇に寄せた医者が静かに座していた。 「…あれほど、ご無理なさいますなと申し上げたのに」 医者は壮年の男で私も昔散々世話になった。 力が抜けたように座り込むと、母が父から布を取る。酷く穏やかな死に顔だ。 苦しまずに逝けたのだろう。 狡い男だ。私と母と美しい女性とちいさく愛らしい幼女を残し、さっさと一人だけ彼岸に逃げおおせた。 「悪性の敗血症を患っておられました。ご自分の限られた命の長さもご存知で。奥方と坊ちゃんには決して知らせてはならぬ、と…」 医者はそこで言葉を詰まらせ、失礼と言って顔を背けた。 父と親交が深い医者は悲しみのあまり涙で言葉が出ないようだ。 母も私も涙を見せないのに、他人の男だけが泣いている。それは不思議な光景だった。 「旦那様の言い付けとはいえ、奥方様に何も知らせなかったのは胸が痛みます」 「…いいえ、先生には幾ら感謝しても足りません。柳生は言葉足らずな人でしたから、さぞ遣りにくいこともあったでしょう。 言葉足らずな上に何でも抱え込むひとだったから、先生には随分救われたのではないかしら。柳生に代わり御礼を申し上げます」 良妻の鑑であるように、母は三つ指を着いて深々と医者にこうべを垂れる。 医者がとんでもないと恐縮する中、顔を上げた母の唇が微かに動いたのを私は見た。 声に出さずとも、なんと言ったか容易に知れた。 かえってきてくれた その時の母は壮絶に美しく凄艶で、まったくの別人のようで。 彼女の心に何かを住まわせるほど追い詰めた父を、改めて憎むほどに。 膝の上で握った拳が汗に濡れる。 医者は懐から何やら取り出し私の手に捩込むように押し付けた。三つ折りの便箋。 開くと見慣れた父の文字が現れる。簡単に言えば残した借用書の使い道は私に任せるとのことだった。 そして最後に「好きなように生きよ」と。私や母への謝罪は、どこを探しても見当たらなかった。 入れ代わり立ち代わりする弔問客に挨拶をして、喪主として勤めを果たし父を送った。 訪れる人々の中に妾宅に住まうあのひとの姿が無かったのが気掛かりで、ふらりと訪ねてしまった。 出て来た女性は喪に服してしたが、顔付きは相変わらず凜としている。 形ばかりの挨拶を交わすと今後どうするかと尋ねてみた。 「田舎に帰ります。悲しみに暮れてばかりではいられませんもの、この子もおりますし」 以前見た時より成長した少女は禿のように髪を切り揃えている。 大人になれば清楚な美人に育つのだと思うと、それを見られないのは残念なような気がした。 そう言えば、と彼女は零す。 「旦那様の学生さんはどうなすったんでしょう。帝大をお辞めになるのかしら…?」 「父の学生?」 「ええ、御実家が旦那様からお金を借りてらした方で…随分優秀な学生さんだったようです。あと少しで返済も終わるという頃、御実家のお父様がお倒れになったそうで。 大學を辞めて御実家に戻るかどうか決め兼ねていらしたみたいです。金策ならどうとでもなると旦那様は説得しようとなさったけれど、御本人がなんとも…」 「それで?どうなりました?」 「人様にこれ以上迷惑はかけられぬと。旦那様、それは残念がっておりました」 血も涙もない父親だと思っていたので、彼女の話は意外だった。 彼女はそれを見通したように私を拮と睨んで話を続けた。 旦那様は心根の優しい方でした。 将来のある若者が勉学に励む志し半ばで潰えるのは口惜しかろうと、返済も保留にして援助もしようと申し出たのです。 親御さんもそれを望んでいる筈だとおっしゃって。 旦那様は少しばかり不器用なだけでした。 誰かひとかたを特別に扱えば角が立つ、それを充分にご理解した上でいつも苦しんでおられました。 私がそれを少しでも和らげられたかどうか、わかりません。 それでも旦那様はご家族を慈しんでおられましたよ。非常に真っ直ぐでお優しい方でした。 そんなことを今更言われても困る。 私を責めるように話し終わると彼女は目を伏せて唇を噛んだ。 冷徹な高利貸しの面が割れて人間らしい父親の顔が見えたような気がしたが、もう遅すぎる。 なにもかも、遅すぎた。 最後にどうかご健勝で、と告げると彼女は私の手を握って、貴方もお幸せにと言ってくれた。 彼女の瞳は悲しみをたたえていたが、それだけでなく確かな強さをも兼ね備えていた。 父の書斎で任せると言われた借用書の束を整理する。 これは全て破棄しよう。 本当は父は金貸しが嫌だったに違いないのだ。 感情を殺さねば立ち往かぬものなら、全て私が終わらせる。 それが亡き父への手向けになると信じた。 流し読んでいた一枚の借用書の名前。 『仁王雅治』 におうまさはる…記憶の回路が繋がる。 老婦人の台詞だ。 『におうさんに用がおありかい』 しわがれた声まで思い出した。 彼が仁王雅治なる人物かどうかわからない。 だが様々な付随する出来事が脳裏をよぎって。 借用書を片手に私は自宅を飛び出していた。 『おんしの帰りを待っちょるけぇ、はよう行きんさい』 そう言って送り出してくれた彼。父の訃報から三日過ぎている。 彼が本を売ったのは返済に充てたからだろうか。 下宿を引き払うと言ったのは退学して田舎に帰るためなのか。 息も切れ切れに書生の下宿にたどり着き、軋む階段を駆け登った。 乱暴に開けた木戸の向こうにはがらんとした空室のみ。 少なかった荷物も薄い綿の少ない煎餅布団も、何も残されていない。 窓際にある小さな古い机の上に、あの日のつまくれないが挿してある。 ソォダ水の瓶に寄り添うように萎れていた。 「…うそつき…」 待っていると言ったのに。 私はその場に膝を着いて、くたびれた花を眺めるしかなかった。 幾つですかと尋ねると少年は十七ですと短く答えた。 奇しくも彼に出会った時の私の年齢である。 私が十七で彼が二十二だったが、少年と私の年齢は一回り近く離れていた。 おあがりなさいと出したソォダ水には手を付けず、何やら居心地が悪そうだ。 それはそうだろう。出会い頭に抱き潰すほどに抱きしめてしまったのだから。 彼がここに居る筈ないのだから。 「仁王雅治は叔父です」 縁者だろうとは思っていたが、甥にしては似過ぎている。 髪の色も肌の白さも…かろうじて声が僅かに高いくらいだ。少年は私の反応を軽くかわした。 慣れている証。恐らく仁王雅治に似ていると何度も言われ、自覚しているのだ。 彼、仁王が私の前から去ってから世の中は急に騒がしくなった。 戦争が始まり国内は血気盛んだったが負けた途端に属国同等に成り下がる。 沖縄は、まだ戻らない。 私は医者になり妻を娶るも難産で腹の子共々亡くしてしまった。 父が残した家は戦争で焼け、跡形も残っていない。一気に老け込んだ母親は自分の実家に世話になり、妹夫婦に看取られて二年前に他界した。 私を含めてこの国自体が立ち直ろうと踏ん張っている。 彼も短いながらも戦争を生き抜いた一人だから同じ気持ちだと信じたかった。 「叔父は帝大を辞めて実家に戻った後、暫く実家の事業を手伝っていたようです。戦争に取られて従軍したものの、直ぐに前線で負傷して帰国しました」 「どこを、怪我されたのです?」 「左足を。引きずっていました。叔父が戻ったのは終戦後です。負傷して帰国した筈なのに、それまでどこで何をしていたのか知りません。ふらりと足を引きずって帰って来たのです」 少年の言葉に仁王雅治という人物像が浮き彫りになる。 あの書生が仁王雅治だと信じたくない時もあった。 彼はどこか新しい下宿先で女学生と戯れたり、玉の井の芸者にうつつを抜かして身持ちを崩したりしているのだと思いたかった。 その方がまだ救われるような気がした。 「叔父は帰ってから胸を病んで床に伏す時間が長かった。それから昔話を聞かせてくれました。学友、お世話になった教授、あなたのことも」 「私、ですか…」 少年はこくりと頷いた。鳶色が私を捕らえる。 「たいそう綺麗な人だったと言っていました。真っ直ぐで清廉な方だったと。…迷っていたとも、言っていた」 「は、は、綺麗云々は差し引いて、迷っていたのは本当です。でも彼に救われました。彼が居たから嫌なことも忘れられたし、大切なことを思い出させてくれました」 乾いた笑い声を虚しく上げると少年は僅かに瞠目した。 「そう言ってくださると有り難いです。叔父は悔いておりました。お世話になったのに何ひとつ返せなかったし、お別れも出来なかったと」 気にかけてくれてはいたのだと、私はいくらか安堵した。 当時は子供だったといえ、父の学生だという驕りもあった。彼にしてみれば生意気な子供だったろう。 私なりに背伸びをしていたのだ。 それでも彼は私に心を砕いてくれて決して邪険にはしなかった。 「これで叔父も浮かばれます」 急に日が陰ったような錯覚。貧血を起こす一歩手前のような。 体温がさざ波のように引いていく。少年の声がやけに遠い。 これは、いや、まさか、でも。 「彼は…?」 「胸を病んでいましたから…長患いで、去年の冬を越せませんでした」 「…そう、でしたか…それは何と申し上げて良いか…お悔やみを…」 ぼんやりとした不安があった。 少年が目の前に現れてから、もしかしたらという思いがあった。 彼の魂が会いに来てくれたのやも知れぬと医者にあるまじき非現実的な想像を、した。 「御実家がどちらか存じ上げませんが、わざわざそれを教えてくださるために?」 「いえ、父のー…叔父の弟です、仕事の手伝いについて来ただけで。それと、これを」 少年は開襟シャツの胸ポケットから懐紙を取り出した。 幾重かに折られ、何かが包まれている。 開いてみると。 「ああ…これは」 「何です?叔父の荷物の中にまじっていたのです。お世話になった方々の名前が書かれた手帳と一緒に、あなたのお名前と、その懐紙が」 「半分あなたに差し上げましょう。これを大切に仕舞っておきなさい。いつか、幸福が芽生えるから」 懐紙の真ん中に転がったつまくれないの種を、きっちり半分少年に差し出した。 彼は暫く目を白黒させていたが、やがて納得したように笑う。 「あなたで二人目です、その話を私にしたのは。一人目は叔父でした。幸福の種があると言って、見せてはくれませんでしたが…今、叶いました」 大事にしますと言って少年は種をポケットに仕舞った。 「あなたの叔父様は、幸福でいらしたのでしょうか…?その、御実家に戻られてから」 少年はしばし考え込んだが、直ぐさま私の目を見据えた。 「叔父の人生を語れる程、叔父を知りません。でもあなたの話をしている時の彼は、いつも幸福そうでしたよ」 それだけで。 長年の後悔や胸のつかえが溶けていくような心地がした。 目頭が熱くて、目の前の少年がぼやけてしまう。 彼とそっくりに鳶色の瞳が私を見て柔らかく笑っていた。 汽車の時間があるからと少年は私の家を出た。 駅まで送ると申し出たが、子供じゃないと断られる。 見送る背中が少し離れたところで不意に振り返った。誰かに呼ばれでもしたかのように。 忘れ物でもしたのだろうか。 「坊ちゃん!」 「坊ちゃん!会えてよかったぜよ。会えてまっこと、嬉しかったぜよ!」 懐かしい訛り。懐かしい声。懐かしい姿。 一瞬、ほんの一瞬だけ追い掛けそうになる体を何とか押し留めた。 私が何か言う前に少年は悪戯っぽく笑うと勢い良く駆け出した。 小さな背中が雑踏に紛れて見えなくなるまで、私は少年の姿を目で追った。 自宅の前の畦道にもつまくれないの花は咲いている。 薄い桃色でぽつりぽつり白いものが交じっていた。 「先生、何してるの?もうすぐお夕飯ですよ!」 声をかけて来たのは三軒隣の一人娘だ。 私が妻を亡くしてから何かと不便だろうと時々手伝いに来ている。 表情豊かな、よく気が利く娘だった。 「ホウセンカね」 私が見ている花を見遣って彼女は手を伸ばす。 指で押さえると熟れた実から種が弾け飛んだ。 「触ってはいけないよ。タッチ・ミー・ノット。花言葉を知らないのかい?」 「あぁら先生、ご存知ないのね。触れないで、だけじゃないの。心を開くという意味もあるんだから」 「心を、開く?」 「そうよ。触れないでと言いながら、それを待ってるの。優しく触れた人にだけ心を開くのよ。どう、素敵じゃない?」 少女はつまくれないの花弁を擽りながら目を細めて笑った後、中でお待ちしてますねと言って家に入って行く。 ああ、信じても良いだろうか。 私が彼と出会った意味を信じて良いだろうか。 彼が私に種を託した理由を信じて、良いだろうか。 『坊ちゃん』 立ち去った少年ではない彼の声が蘇る。 触れられない彼を、ただ想う。 耳に心地快い彼の声が鼓膜を震わせ何度も何度も繰り返された。 溢れるのは涙ではなく、もう決して触れることが叶わない、彼への愛おしさだった。 『坊ちゃん』 ただ、それだけだった。 ※補足※ 一高…旧制高等学校・第一高等学校 帝大…帝国大学 恩賜の時計…帝国大学を最優秀成績で卒業した者に天皇陛下から下賜される銀時計 玉の井…現在の東京都墨田区向島・私娼窟が密集していた。作中では場所そのものではなく、そこで働く玄人女性を指す 2008.7/24 all produced by.サメ (fin) ぼたもちからの狂喜乱文「ひまつぶし」のサメさんから、相互リンク記念に頂きました…!なんという贅沢!!頂いた直後は腹を切って死のうと思いました。いつも水の中にいるような、きらきら輝くみなもを川底から眺めているような印象を受ける、そんなサメさんの文章は、リンクページ、「ひまつぶし」さまでたっぷりとお楽しみいただけます!!!ぜひお出かけください^^ サメさん本当に有難うございました!!とりあえず死んできます! |