「宍戸さん!」


あからさまに弾んだ声が、俺の隣を風になって駆け抜けてゆく。やつ、鳳長太郎は―――俺の幼馴染は、いつもそうだ。普段は鈍くさくてのろまなくせに、自分の気持ちにはいつだって、潔いほど嘘をつかない。
どんどん小さくなっていく鳳の背中の向こうには、あおあおと光るテニスコートのそば、青い帽子を斜めにかぶった、いつものあの人が立っていた。宍戸亮。ひとつ年上の、テニス部レギュラーの先輩だ。鷹揚で、バカがつくほど真っ直ぐで正直な彼は、駆け寄ってくる鳳の姿を認めて照れくさそうに鼻をこすり、小さく笑ったが、すぐにそれを押し隠すように、口をへの字に折り曲げた。素直じゃない。また来たのかよ、とか、声がでけぇよ、とか、先輩の立場上、そういったことをぼやいているんだろう。それに対する鳳の、あの情けない破顔っぷりといったら!「だって、宍戸さんに会いたかったんです!」だなんて。ああ、ばかばかしいと、思わざるを得ないだろう?宍戸は、甘いんだか苦いんだかよくわからないものを食べさせられたような顔をして、そっぽを向いて頭を掻いていたけれど、遠目からでもわかるほど、その耳は真っ赤に染まっていた。


そのままふたりが部室の方へ連れ立って歩き出してしまうと、俺はもう全く以ってこの場所から用無しになる。鳳の気が利かないのは14年前からだけれど、最近はますますもって前よりひどい。「テニス部に好きな人ができたかもしれない」と打ち明けられたのが3ヶ月前で、「放課後は毎日テニス部に差し入れに行きたいんだ」と迷惑な決意をあらわにされたのが1ヶ月前。「ひとりでコートまで行くのは心細いから、日吉、お願いだから一緒に行って!」と拝み倒されたのが3週間前だ。そして、勝手に行ってろと蹴り倒すその足から、しがみついてでも離れようとしない鳳の執念に脅かされ、こうして日々の放課後をテニスコートで無駄にするようになったのも、同じく3週間前から。不毛だ。心の底から不毛すぎる。こんなことしているくらいなら、道場でいくらだって修行が積めるし、授業の予習復習だってトントン拍子で進むだろう。いくら帰宅部だからって、俺は断じて暇なわけじゃないのに!



「何や、退屈そうやな、お姫さん」



不意に背後から声がかかったのは、その時だった。そのハスキーでニヒリスティックな喋り方に嫌というほど心当たりがあった俺は、とっさに眉を跳ね上げて半眼になる。背中側にいるのだから、そんな俺の表情が見えているはずもないのに、声はさらにフ、と笑いを零す気配を見せたから、ますますもって苛立たしい。背にしていた金網がキシリ、と鳴り、ややしてフェンスに備え付けの扉から姿を現したのは、ひょろりと上背のある、黒髪に丸眼鏡の男だった。宍戸と同じ、スカイブルーのテニス部レギュラージャージを身に纏っているその男は、ガラスの向こうの黒い瞳を意地悪く細め、俺をしげしげと見下ろしてくる。ゆうに15センチ以上はある身長差がまた腹立たしく、くん、と首を突っ張るようにして睨み上げたが、彼はさして動じた様子も見せず、そ知らぬ顔で俺の隣にやって来た。すかさず距離を開けて離れてやると、「猫みたいや」、と愉快そうに笑い声をあげる。不快だ。物凄く、不快だ。


「そないに毛嫌いせんでもええやん。ほんま、日吉はかわええな」
「気色悪い事を言わないでください。練習、始まるんでしょ。俺なんかにかまけてないで、あんたはさっさとその生白い腕を磨く準備でもしたらどうです」
「相変わらず手厳しいなあ。ええんよ、まだ点呼かかってへんねんから。かわええ後輩が置いてけぼりくらって寂しそ〜にしとるのに、無視できるわけないやろ」
「今すぐ眼科に行ってください。俺の何処が寂しそうに見えるって言うんです」
「んん〜?ぜんぶ?」


そう言って、気色悪く小首をかしげて見せたこの人は、忍足、という。宍戸と同じひとつ上の学年で、テニス部所属。胡散臭い関西弁と、皮肉っぽい物言いは、どう聞いても怪しいことこの上ないのだが、こう見えてテニスの実力は部内でナンバー2らしい。人は見かけによらないとは、よく言ったものだ。

思い出したくもない、この男との呪わしき出会いは3週間前。鳳が宍戸と一緒に差し入れを部室へ運ぶまでの間、このフェンス前で手持ち無沙汰になっていた俺に、彼が気安く声をかけてきたのが最初だ。テニス、好きなん?と。いいえ、と答えた俺に、彼はひどく驚いたような顔をして、じゃあ、嫌いなん?と尋ねてきた。それに対しても、いいえ、と答えると、では何なのかと尋ねかけてくるから、知りません、やったことありませんから、と答えてやると、失礼なことに彼はその場で腹を抱えて大爆笑したのだった。今思い出してもむかっ腹が立つ限りだが、どうも俺の歯に衣着せない物言いがツボにはまったらしい。以来、忍足さんはまるで決まった約束事のように、鳳の帰りを待つ俺のところに暇さえあればやってきては、くだらない話をして去っていくのが日課になってしまった。最初はひとりで待っている俺に、くだらない気を遣っているのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。おおかたは物事を斜に見たようなあの皮肉な口調で、自分の話したいことだけを話し、自己満足して去っていく。俺がどんなに冷遇しようが無視をしようが、まるでなんでもないように接してくるから、タチが悪い。


「も少し、素直になったればええのに。せっかくキレイな顔しとるんやし、もうちょいオンナノコらしゅうすれば、世の男共も黙ってないと思うで」
「興味ありません。面倒なだけです、そんなの」
「………まあ、世の中ツンデレ属性も多いっちゅう話やけどな」
「日本語で喋ってくれません?」


氷点下の視線で睨み付けても、忍足さんは全く動じた様子を見せずに、ヘラリと笑って肩を竦めるだけだ。殴りたい。同学年だったなら、間違いなく決め技の一発でも食らわしてやるのに。年功序列なんて、消えてなくなっちまえばいいんだ。

不意に俺の頭の中で、5つ年上の兄の姿が浮かび上がった。日々の稽古を欠かさない俺とは違い、大学のサークルやコンパにいそしんでばかりで、ろくに修行にも出てこない兄。けれど実際組み手を組んでみれば、力では到底兄にかなわず、俺はいつも不条理な思いをしていた。下克上を誓っていっそう修行に精を出しても、どうしても見えない頑強な壁が、兄との間には聳え立っている。兄が笑い、遊び、怠惰に過ごしている間にも、俺は懸命に鍛錬にいそしんでいるのに。
それでいて、年功序列をたてる一族のしきたりにおいては、次の道場継承者は兄とハナから決められている。そもそもが、女である時点で、俺と兄とは同じ土俵にも立てやしないのだ。だから俺にとって、女性らしくあることや、女性らしく見られることは、物心ついたころから何より邪魔で役に立たないものばかりだった。忍足の言うことは、てんで見当違いに他ならないのだ。








そんなこんなの内に、部室から鳳が、その斜め後ろを追うように宍戸がこちらへ歩いて来るのが目に入った。俺の視線に気付くと、ふわふわの銀色の髪を揺らして、鳳が手を振る。満面の笑顔。あの様子なら、今日も差し入れは喜ばれたのだろう。素直なヤツだ。けれど、その後ろで仕方なさそうに笑っている宍戸の表情には、なぜだか面白くないものを感じて、俺は少しだけ俯く。ここに来るのは、だから嫌いだ。不毛だし、退屈だし、忍足さんは鬱陶しく、それに時折、こんな風にわけのわからない感情がこみあげるから。自分で制御できない自分なんて、自分じゃない。


「日吉、俺今日は部活を見学させてもらえることになったんだ!スタジアムの方で。日吉も一緒に行かない?」


駆け寄ってきた鳳は、俺の腕を取ってそう笑った。鳳の笑顔は、花みたいだ。女の俺でさえそう思うんだから、男たちからすれば余計だろう。家が古武術の道場をやっている俺が、物心ついた頃から防具と竹刀を握っていたのに対して、鳳はピアノとケーキと絵画を愛する、典型的な深窓のお嬢さんをやってきた。ほっそりした指、白い肌、やわらかな髪。みんな俺とは正反対だ。性格は鈍くさくてのろまで気の効かないやつだけれど、それでも誰に対しても平等に笑いかけ、自分や人に正直に生きているまっすぐさは、こいつの持つ天賦の才能だと思っている。だからこそ。


「行かねえよ。俺は先に帰る」


腕を揺すって手を振り払うと、鳳は拗ねたような顔つきになった。本当に、感情に素直なヤツだ。


「どうして?いいじゃん、今日は火曜だから道場お休みの日でしょ。せっかく今日は俺がお願いする前に、宍戸さんから誘ってもらったのに」
「バカ、余計なこと言うなっての」


後ろで宍戸が慌てたような顔になった。自身の好意的行動が知らしめられることを、よしとしないこの人らしい。本当にシャイな人だ。テニス部の中ではそこまで身長のある方ではない宍戸も、俺よりはこぶしひとつ分背が高い。伺うように見上げると、目が合った彼はまた仕方のなさそうな顔になり、「お前らにはいつも世話になってっから」と言いにくそうに呟いた。


「今日はシングルスの練習試合があっからな。テニスに明るくなくても、それなりに楽しいと思うし、なんたってレギュラーの総当りが見られるぜ。俺はもちろん、跡部サマもご登場だし。あとコイツもな」
「ついでみたいに言うの、やめてんか」


どうでもよさげに宍戸から指差された忍足が、呆れた声で不平を垂らす。しかしその丸眼鏡の向こうの目が、気遣うように俺を見たのがわかって、俺はまた苛気が込み上げて俯く。とにかく、俺は関係ありませんから、と言い切って踵を返すと、不満げな鳳の声が背中から追ってきたが、俺は足を止めなかった。だが、テニスコートの敷地から出る直前、誰かにしたたかに肩を掴まれ、よろめく。傾いだ体を支えたのは、忍足の手だった。見かけはひょろりと痩せて見えるのに、やはりテニス部のレギュラーだけあり、ひそめられた静かな力が、そこにはあった。こんなところでも、男女の性差が目に見える。



「なんですか」



振り返って睨みつけると、珍しい事に忍足は、いつものあの皮肉げな笑顔を一切消した、冷たい無表情でそこに立っていた。何となく気圧されてつばを飲むと、彼は身を折って俺の耳に顔を寄せ、静かな声で呟きかける。













「な。も少し素直にならんと、日吉。ただでさえ鈍くさいヤツなんや。いつまでたっても宍戸は、お前の気持ちに気付かへんままやで」













言われた内容を理解した瞬間、頭に血が上った。衝動的に平手を振り上げたが、しかし予測していたらしい忍足の右手にやすやすと防がれる。腕を掴まれたままキッと眦を吊り上げて睨み上げたが、視界の先に、コートのほうへと駆けていく鳳の後姿が映って、力が抜ける。ほっそりした体、ふわふわと揺れる銀の髪、花のような笑顔。どれもみんな、俺にはないものばかり。
ふいにぎゅ、と忍足の手に力が込められて、顔を上げる。目が合った忍足の表情は、なぜだか少し寂しげで、俺はとっさに言葉が出なかった。沈黙が落ちた瞬間、しかしもう片方の腕で髪をかきまぜるように撫でられたので、俺はぎょっとして掴まれた腕を振り払う。頭の上の手も同じく跳ね除けようとしたが、時すでに遅く、忍足は飛びのくように離れてしまったので、舌打ちする。「おおこわ」、と、両手を掲げてホールドアップの体勢になった彼からは、もう先ほどのような表情は消えて、いつものあの、皮肉っぽい憎たらしい笑顔が浮かんでいた。



「じゃあな、お姫さん。また来ぃや」



肩で息をするままの俺に、そう気障ったらしく囁くと、今度こそ忍足はその場から去っていった。なんて男だろう!悠々と立ち去っていくその背中を、想像の中で思い切り殴りつけたあと、俺はその場に立ち尽くし、俯いた。遠くで、ボールの弾む音が聞こえ始めている。あの中に、宍戸の打つボールも混じっているのだろうか。
頭の中で、忍足に言われた言葉がわんわんと回る。気付かれてしまった。指摘されてしまった以上、この思いを自分の中でなかったことには、出来ない。ここに来るのは、だから嫌いだ。不毛だし、退屈だし、忍足さんは鬱陶しく、わけのわからない感情がこみあげるから。自分で制御できない自分なんて、自分じゃないのに。





(強くなりたい)





何にも左右されない、強い強い心が欲しい。女であることなんて、邪魔なばかりなのに、相反して女になりきれない自分を悔やむ己なんて、許せない。宙ぶらりんな気持ちを抱えたまま、俺は今日もひとりで家路につく。見慣れたはずの信号も標識も街灯さえも、中途半端な存在に、どこか冷たく感じられるまま。