|
宍戸亮、という人とまともに言葉を交わしたことは、思い付く限り一回。それっきりだ。その日、いつもはあれだけ図太く健康優良児であるはずの鳳は、珍しく風邪で学校を休んだ。奴が、宍戸にあからさまに迷惑な一目惚れをして、テニス部に通い始めた2週間目の木曜日。少し、風の冷え込む放課後だった。トラブルメーカー不在の朗報に、この日ばかりは真っすぐに帰宅できると胸を撫で下ろしていた俺に、当の鳳からメールが入ったのは、全く不運としか言いようがない。いわく、『約束していたチェリーパイを持っていくことが出来なくなってごめんなさい☆』との宍戸への謝罪を、直接本人まで伝えてほしい、との旨だった。いっぺん死んでこい!!息巻いた俺の胸中など、あいつは全くもって思いつきもしないだろう。幼稚園児並に都合のいい頭をしている。しかしそのわりに、自分の傾倒しているものごとに関してはじめじめとねちっこい性格だから、タチが悪い。ともかくあの日の俺はそういう理由で、しぶしぶテニスコートに向かったのだった。 はたして、宍戸はすぐに見つかった。クレーコートで、黙々と壁打ちをしている。声をかけるわけにもいかず、しばらく突っ立って見つめていると、やがて宍戸の方が俺に気付き、寄ってきた。帽子に汗が染みて、ブルーが深く滲んでいる。 「あー、日吉、だったっけ。あれ、今日はお前一人なのか?」 「鳳なら、風邪引いて寝込んでます。菓子を渡しに来れなくて、すみませんだとか何とか。俺はただ、それ伝えに来ただけです」 じゃあ、と身を翻しかけた俺に、宍戸はあっけに取られたようだった。俺と鳳とのあまりの温度差に圧倒されたらしい。もう帰るのかよ!?と咄嗟にツッコミをくれてくる宍戸に、俺は心底うんざりした。世間一般の中学1年生女子が、皆あの勢いで生きてると思い込むのは勘弁してくれないだろうか。皮肉たっぷりに提言すると、意外なことに宍戸はアッサリ、そうか、と頷いた。「後輩の女子と話す機会なんか、ねえからよ」彼があんまり率直に、悪かったな、と頭を掻くので、俺は拍子抜けして口を噤む。謝られるのも何か違う気がしたが、上手く説明出来そうにもなかったので、黙殺した。何か、困る、と思った。調子が狂う。 「そういや、日吉はテニス、興味あるのか?運動神経良さそうだよな、お前」 「いえ、別に」 間髪入れずに返してしまってから、それじゃ身も蓋も無いと気が付いて、「やったことがないから、わからないだけです」と、考えながら付け加えた。何となく、彼にはそうしなければいけない気がしたのだ。宍戸は軽く頷いて、何か他にスポーツはやってるのか、と尋ねてきた。アスリートは往々にして、見ただけで他者から同じアスリートのにおいを嗅ぎつけることが出来るらしい。「武術ですかね。家が道場なので」答えると、彼は「ヘェ!」とまた率直な驚きの声を上げた。「かっこいいんだなぁ、お前」 「女らしくないって評判ですけどね」 それは本人の意思を差し引いたところで周囲から下される、ごく大衆的な評価だった。女の子なのに武道なんて、無粋よ。一時の道楽だろう。だから言われ慣れていたそれらを皮肉のつもりで引き合いに出し、肩を竦める。しかし、当の宍戸は笑うどころか、いかにも心外そうな顔をした。そこで心外に思われるのも心外だったので黙り込むと、別に、スポーツに男も女もねえだろ、と彼はあっけらかんと言い切った。本当に、芯からそう思ってると言わんばかりの口調だった。 「俺らも、たまに女テニと練習したりすっけどよ。あいつら強いぜ。うちは、跡部のヤローが派手だからさ、男テニのがやたら目立つっちゃ目立つけど、でも、全国行きてぇとか、優勝してぇとか、そう思うのにあいつらと俺らで差があるわけじゃねーし。お前だってそうじゃねーの?」 真っ直ぐに問い掛けられて、とっさに答えることが出来ずに、まばたく。同時に、脳裏を大嫌いな兄の軽薄な笑みが横切ったことを覚えている。強さを追い求めれば追い求めるほど、遠くなっていく兄の背中、腕。若、もうやめときな。お前は女なんだからさ、俺には絶対勝てねーよ。だから、なあ、そろそろ潮時だろ。もうやめな。 前の晩、俺は兄と酷くこじれたのだった。日ごろはバイトやサークルで遊び歩いている兄が、その晩はたまたま日付の変わる前に帰ってきて、珍しく道場に顔を出したのだ。門下生たちが帰ったあともひとりで稽古していた俺を見て、兄は出し抜けにそう言った。あの大嫌いな笑みだった。許せなくて、もとより許すつもりもなくて、怒りで視界が真っ赤に染まったような気がした。取り消させたくて、組み手を挑んだけれど、兄は受けるそぶりもなく、逃げるように母屋に戻ろうとしたから、また頭に血が上った。咄嗟に俺より20センチは高い所にある肩に掴みかかったけれど、兄は片手をひねるようにして、身を反らし、その手で俺の手を掴んで―――それで終わりだった。俺がどんなに力を込めても、兄の腕は、身体は、ビクともしなかったのだ。どうして。どうしてどうして、どうして!駆け上がるような焦燥と激情と虚無に駆られた俺に、兄は、もう一度繰り返した。潮時だ、若、と。俺の腕を払った兄は、また口許に軽薄な笑みを浮かべて、悠然と背中を揺らして去っていった。俺は動くことも出来なくて、また怒りに吠え立てることも、涙を流すことも思いつきさえしなかった。世界の中で起こり得る、最も屈辱的な物言いを、されたのだ。あんな、どうしようもない、最低の男に。自分の全てを、否定されて、捨てられたのだ。 「日吉?」 訝しげに声を掛けられて、ハッと顔を上げる。宍戸は、思考に沈んでいた俺を、不可解そうな顔で見下ろしていた。強くなりたいと願う気持ちに、俺と女のあいつらとで、差があるわけじゃない。お前だって、そうだろう――当たり前の口調で言い切ったその人の荒削りの顔を、俺はじっと見上げた。まっすぐで、嘘のない目。迷うことを知らないようなその目で、誰とも違うことを言うこの人に、鳳がなぜ惹かれていったのか、わかったような気がする。同時に、なぜだか途方に暮れた気持ちになって、小さく頷くと、宍戸はいまだ不思議そうながらも、歯を見せて笑った。カラリと晴れた空の色。すべてを吹き飛ばす、真夏の風に似ている。 それから2・3、言葉を交わすうち、フェンスの向こう、ちょお、そこのおふたりさん、と、間延びする声で呼びかけてきたのは、忍足だった。彼は宍戸を見て、俺を見て、それからもう一度宍戸を見ると、跡部が呼んどる、と、抑揚のない声で端的に言った。軽く頷いた宍戸は、じゃあ行くわ、呼び止めて悪かったな、と、さばけた声で告げてくる。そもそも彼の個人練習に水をさしたのは自分だったので、いらぬ気遣いだ。首を振ると、宍戸は忍足と連れ立つようにしてメインコートのほうへ去っていった。何度か振り返ってこちらに視線を向けてきた忍足と違い、宍戸は一度も振り返ることをしなかった。まっすぐに、歩みの先にあるメインコートを見つめている。彼が目指すべき場所。彼が手に入れたいと願うもの。彼はそれらを迷わない、迷うことなんて知らない人だ、そう思った。鋭い風が襟元に吹き込んだのをきっかけに、俺はきびすを返して帰路につく。不思議と、寒さは全く気にならなかった。 翌日、ケロリとした風情で登校してきた鳳にことの次第を尋ねられ、俺は短く、伝言は確かに伝えた、という報告だけをした。そのとき宍戸と交わした会話のすみずみまで、鳳は子供のように知りたがったけれど、とりたてて記憶に残るほどの言葉なんかなにもない、と、俺はすげなくそれを突っぱねた。突っぱねて、そうして気が付く。それは俺が鳳と出会ってから13年、初めて口にした嘘だった。まるでぜんまい仕掛けのようにするりと自然に動いた口びるを、俺は指で慎重になぞった。偽証も、ごまかしも、大嫌いだ。この世が正しいことで満ちてるなんて信じちゃいないけど、少なくとも俺くらいは、そんな世界に便乗するまいと思っていた。思っていたのに。 近くで見る宍戸さんは、格好良かったでしょう――その横ではすっかり信用したらしい鳳が、いつものように、誇らしげに話し始めている。何も知らずに朗らかに笑う鳳に、俺は初めて、「うしろめたい」という感情を得た。その感情が起因する理由は、その日の放課後、すぐに思い知らされることになった。咲き誇るように笑う鳳を、へきえきした様子を見せながらもまっすぐに見つめ返す宍戸。宍戸は嘘をつかない。ほしいもの、目指すものに迷ったりしない。それがわかっていたから、俺は、彼がまっすぐに鳳を見つめ返す意味を知っていた。そして知っていたからこそ、俺の、このばかげた子供らしい思いは浮上する前に帰着点を見せた。最初から、わかりきっていたことではあったけれど。たとえ浮き上がったところで、どうするつもりもなかったけれど。 宍戸は取り立てて、俺との会話を鳳に話すことはしなかったようで、俺は鳳にこの小さな、けれど決定的に俺の中の何かを分ける嘘を、断罪されることはなかった。しかし嘘は存在した時点で、すなわち罪悪だ。鳳が何も知らずに子供のように笑うたび、日吉もおいでよ、と宍戸の前にいざなわれるたび、兄をねじ伏せるほど強くもなりきれず、プライドが邪魔をして弱くもなりきれない自分自身を、俺は自覚せずにはいられなかった。もうテニスコートには行かないと、ただそれだけが言えない。放課後のテニスコート、俺が目を伏せることが多くなったことに、ニブチンの鳳は当然気付かなくて、なんだか笑えてしまった。そういうヤツなんだよ。ウスノロで、どんくさいけど、お人よしでまっすぐなヤツなんだ。だから、宍戸は鳳を選んだんだ。すべてはもう、そういうことだった。 (to be continued…) あとがきすっかり忘れ去った頃に更新で申し訳ありません。日吉が宍戸に恋に落ちた瞬間のおはなし。長太郎が無神経な子ですいません。次か、その次で終わります。お読みくださりありがとうございました! |