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しつれい、しました。抑揚というものを省ききった声でそう告げて、忍足侑士はゆっくりと職員室の扉を閉めた。暖房の行き渡った室内から廊下へ出ると、照明が落とされ人気を失った、がらんとした校内の寒々しさがいやでも目に付く。うすらさむいわ、と口の中でだけ呟いた忍足は、抱えたままだった書類の束をディパックに纏めてつっこむと、コートを着込んで薄暗い廊下を歩き出した。上履きは終業式と同時に家に持ち帰ってしまっているので、今つっかけているのは来客用の刺繍が入ったスリッパだ。なんや、足元スースーして落ち着かへん、と眉をハの字にして、忍足は誰もいない廊下の突き当たりを右に曲がる。目指す3年昇降口はワンフロア下にあるので、多くの生徒は突き当たり左の階段をそのまま下りてゆくのだが、忍足はよほどの事がない限り、右手の渡り廊下をわたってほんのわずか、回り道をするのが常だった。単純に、渡り廊下から眺める中庭の景色が好きなのだ。噴水広場をはさみ、クラブハウスの並びがずっと突き抜けて見える。 だから、ぺたり、ぺたりと気の抜けた足音を響かせて、今日も忍足は渡り廊下の真ん中に立った。昨夜は記録的な寒波の訪れによって、深夜から未明にかけて関東全域に雪がチラつき、今も忍足の見下ろすガラス越しの風景はうっすらと白い。いつもは校舎移動の生徒や運動部のランニングでにぎわっている中庭の石畳は、今日に限ってがらんと寒々しく、いっそう広く感じられて落ち着かなかった。年齢の割りに無感動なところのある忍足が、それでも年間通して愛し続けたはずの景色は、高校生活最後の冬の到来と共に、どこかよそよそしくなって彼の前に広がっている。忍足は黙り込み、わずかに視線を伏せてマフラーに口元をうずめこんだ。カシミヤの中に篭った息が熱い。どうしてか、くらくらと眩暈がしそうだった。 長いような、短いような時間のあと、ようやく俯けていた顔を上げた忍足は、ふと視界をよぎった黒い影に目を留めた。クラブハウス群のかなた、忍足がきっと教室より何処より深く、長く時を過ごした場所に、ぽつんとひとつ、人影がたたずんでいる。見れば確かに、中庭の石畳を粉砂糖のように覆う雪の上に、その人物が残したと思しきあしあとがひとり分、門から彼方へとまっすぐに続いているのだ。この寒い中、休校閉鎖中のテニスコートになんぞ物好きがいるこっちゃなあ、と目をこらした忍足は、しかし人影のぴんと伸びた背筋に覚えを感じた時、あぜんと口を開けた。頭をがんと殴りつけたような、鈍い衝撃が駆け抜ける。気付いた時には身を翻し、忍足はがむしゃらになって校内を疾駆していた。昇降口に脱ぎ捨てたままの革靴に足を突っ込み、傘立てにひとつっきりの自分のビニル傘を引っつかんで、体当たりするようにガラス戸を押し開けて外へ出る。掴んだはいいが傘をさす余裕もなく、一目散に中庭へ回って噴水広場へ飛び出した忍足は、確かにまっすぐにコートへと続く、迷いのない軌跡の足跡に目をすがめ、一気に雪を蹴って走り出した。眼鏡が外気にさらされて曇ったが、視界の悪さにも阻まれることなく、忍足はまっすぐにコートへ駆ける。何度だって往復した道のりだった。本当に何度だって、何度だって。 徐々に近付いてくる見慣れた金網の向こうに、想像したとおりの背中を見出して、けれど忍足はそんなはずあらへん、と口の中で呟いた。頭が痛む。胸が疼く。そんなはずあらへん、ここにおるわけあらへん。あいつが今、ここにいるわけないんや。 開け放した金網の向こう、うっすらと雪の積もったテニスコートの中央に、彼は立っていた。仕立ての良い上品な黒の外套を羽織り、両腕をポケットに突っ込んで、高飛車に、背筋を伸ばして佇んでいる。盛大な足音を立てて駆け付けてきたのだから、忍足の存在にはとうに気が付いているだろうに、彼は、跡部は、こちらをちらりとも見ようとせず、黙ってそこに立っていた。 「………何で、おるんや」 何か声をかけなければと、らしくもなく慌てふためいた忍足が、長い時間をかけてようやく選んだ言葉はそれだった。たいがいの場面で何でも器用に卒なくこなしてきた筈の自分がこの有様かと、忍足は自分で自分を恥じたけれど、けれど一番問い掛けたい質問であったことは確かだった。跡部は振り向かない。ただわずかに、肩を竦めるような仕草をした。 「そりゃ、こっちの台詞だな。冬季休業中の学園に、役員でも何でもねえお前ごときが、一体何の用事があるって?」 「俺は、別に。ただセンターの――自己採点の結果を届けに来ただけや」 「こんな朝っぱらからか」 「知った奴らと顔合わせとうなかったんや。いろいろと面倒やん」 「ハ。お前、今の自分の行動わかって言ってんのか、アーン?大いに矛盾してるぜ」 指摘されて、忍足は黙り込んだ。確かに、知った顔に会いたくないからという理由で早朝から自主登校したと言いながら、跡部を見つけてからここまで迷わずまっすぐやって来た自分の行動は、全く以って矛盾しているだろう。けれど、それは跡部だからだ、と忍足は俯く。跡部だからだ。いる筈のない人間が、今、この瞬間、ここにこうして立っているからだ。 「……何で、おるんや」 問いかけたいことはやはりひとつきりしかなく、忍足は俯いて、同じ問い掛けを静かにもう一度繰り返した。今度は軽口を叩かずに黙り込んだ跡部は、やがてひとつ、短いため息を零し、振り返る。毅然とした表情、意思の強いまなざし、皮肉げにそびやかした肩。見慣れた筈の跡部の姿が、けれどこの時の忍足にはどうしてか、わずかに違って見えていた。 「見たくなったんだよ、急に。追い出し会の時はお前らのせいで大騒ぎで、それどころじゃなかったからな。――つっても、いざ来てみたって雪は降ってやがるし、物珍しいモンがあるわけでもねぇ。見たから何がどうってわけでもねぇんだけどよ」 「―――だからって、何で今日なん」 搭乗時間とか、あるんやろ。 俯いて囁くように問い掛けた忍足に、跡部は肩をそびやかし、俺様に限ってそんなヘマするかよ、と、なんだかとても優しい声でそう言った。 「それとも、何だ。俺様が感傷的になったら、可笑しいとでも?」 「…あー。まあ、確かに、俺様何様跡部様のお前にしてみりゃ、珍しい事かもしれへんけど」 だから今日、こないに雪が降っとるんかなあ。冗談めかして笑って見せるが、上手く笑えた自信はなかった。こちらを見つめて皮肉げに微笑んでいる跡部のまなざしが、どうしてかひどくやわらかく見えて、忍足は唇を噛む。そんなん、あかんやろ。心中で呻いて、拳を握る。いつだって傲岸不遜で、理不尽で、俺様で、自信家でナルシストなお前が、そんな優しい顔してもうたら、あかんやろ。 跡部は、氷帝学園高等部を卒業と同時に渡米し、カリフォルニアの大学を受験する手筈でいた。即戦力になる語学と経営学を学び、大学卒業後はすぐに父親の運営する海外事業所で経営の下積みをするのだそうだ。日本に戻る事はもういくらもないだろうと、数ヶ月前、跡部は淡々と告白した。また渡米と同時にテニスもやめて、暫くは趣味でさえラケットを握る事はないとも、跡部は自ら宣言していた。仲間の誰もが跡部の告白に驚愕したが、しかし中学生の時分から海外スカウトを幾度受けても断り続けていた跡部の姿を長く見てきた彼らにとっては、ああやっぱりと、心の何処かでひっそり覚悟していた事でもあった。氷帝を離れる者は跡部だけではない。かく言う自分だって関西の医大を受験しており、合格すればそれと同時に氷帝を――東京を離れる事になる。また東京に留まると言えども、テニス部の仲間の面々の殆どは外部の私大を受験するものばかりで、エスカレーターで付属大に進むのは宍戸くらいだった。その誰もが、新しい境遇下でテニスをなおも続けるかはわからず、プロプレイヤーを目指そうとする者は、最早自分たちの代には存在しない。誰もが既にがむしゃらに好きなものを追い続けていられるほど、子供ではいられなくなっていた。 数週間前の追い出し会の後、知らされた跡部の渡米の日付は今日だった。見送りに行くという話も出ている。実際、岳人や慈郎を始めとした殆どのテニス部の面々はその気で話を進めているようだが、忍足は断固として乗らなかった。何を言って跡部を送れば良いのかまるで検討がつかなかったのもあるし、何処か跡部にいわれなく腹を立てているフシが、忍足にはあった。だって、跡部は自分たちにとって、道標のような存在だったのだ。傲岸不遜で理不尽で、自信家でナルシストの跡部。だけど彼が目指す先を共に見据えていれば、きっと輝かしい未来が待つに違いないと、表立っては言わずとも、仲間の誰もが疑うことなくそう考えていた。実際、跡部を部長に据えて戦い抜いた氷帝学園テニス部の6年間は、戦績がどうであれ、仲間達の誰にとっても誇るべき日々に違いないのだ。けれどその先頭で笑っていたはずの跡部が、あっけなく、自分たちの目の前から去ってゆこうとしている。テニスを手放そうとしている。言い知れない感情が忍足をさらって、憎しみとも怒りともつかない波が彼の中に湧き上がって、だから忍足はかさねがさねの説得にも耳を貸さず、ついに見送り班に名を連ねる事をしなかった。子供っぽいとわかっていたけれど、どうにも出来ない思いと意地が、彼を頑なにさせていたのだった。 けれど、ついに忍足は跡部に出会ってしまった。彼が去ってしまうその日に、こんな、言い逃れの出来ない場所で。ひとりぽつりと、コートを眺めていた跡部。小憎らしく笑っているのに、いつもと変わらずに笑っているのに、何処かどうしようもなく優しい跡部。名前のつけられない感情が胸を塞いで、どうしようもなかった。けれど、見ない振りをしたかったならいくらだって出来た筈なのに、とうとうここへ来てしまったのは忍足の意思だ。天才のあざなされた自分が笑えるくらいに取り乱して、息せき切ってここへやって来たのは忍足自身の意思だ。そして、何事にも無気力に、流れるようにと卒なく生きてきた忍足を最初に怒鳴りつけ、叱り飛ばしたのは。殴りつけた末に、己の意思で動くようにと繰り返し叫び、忍足を変えたのは。きっとそれはまごうことなく、目の前に立っているこの跡部という少年だった。 不意に、跡部が驚いたように軽く目を瞠ったので、忍足は顔を顰め、渋面になって横を向いた。視界が滲んだ事には気が付いていたが、いやはや。ズ、と鼻をすすり上げると、跡部がしかたなさそうに苦笑する。なんでお前がんな顔すんだよ、と、彼は素直に可笑しそうな声を上げた。 「何でお前がんな顔すんだよ、らしくもねぇ。気味悪ぃからよせよ」 「らしくあらへんのは、跡部やん。何でこんな日に、こんな所おるねん。見なかった振りも出来へんやん。ほんま、最初っから最後までムカつく奴」 「バーカ。理由なんか、ひとつっきりしかねえだろうが。…言わせる気かよ」 「――――いいや」 最後の日に、跡部がたったひとり、この場所に佇む理由。誰も従えずに、真っ白の雪の中でぽつりと、黒いしみのように佇む理由。そんなもの、考えるより先にわかっていた。コート。笑い声。ボールの弾む音。インパクトの衝撃、勝利、敗北、過ぎてしまって戻らない時間。その中を奇跡のように、俺達は走っていたのだ。一緒に。 (次は絶対に、このメンバーで勝ち抜いてやろうぜ!!!) 「――――そろそろ、行く」 長いような短いような沈黙を破って、跡部が呟いた。忍足は黙って頷く。やがて、長い外套の裾を翻し、誰もが持ち得ない毅然とした風情の少年が、立ち尽くす忍足の横を過ぎて行った。来た時と同じ、まっすぐで迷いのない足跡が、またその足で刻々と刻まれてゆく。それを眺めていて不意に、水底に石を投げ込んだように唐突に、さびしい、という言葉が、忍足の心の中に浮き上がった。同時にすとんと、肩の荷が落ちたような心地になる。そうだ、自分は多分、さびしかったのだ。腹を立てていたのではなく、憎んでいたわけでもなく、ただ跡部が去ってゆくという事がさびしかった。物慣れない感情に振り回されて、随分と遠回りをしてしまった。そしてそれは多分、意地っ張りな跡部自身も。それだけ、すべてが大切だった。今過ぎてゆこうとしている、この瞬間でさえ。同じものを思い、同じものを願い、同じものに向けて走り続けてきた、かけがえのないものたちを。 「跡部!」 名を呼ぶと、彼が怪訝そうな顔でこちらを振り返る。忍足は眼鏡を外すと、今度は自然に湧き上がった微笑を、素直に唇に乗せた。ポケットに突っ込んでいた手をひらりと振ってみせる。 「いってらっしゃい」 例えばお前がいなくなっても、例えばテニスという絆がついえても、例えば離れ離れになったとしても、お前の居場所は、俺達の居場所は、いつだってここにあるんだよ、跡部。 跡部は一瞬、小さな子供のようにきょとんと瞳を瞬かせたが、やがてすぐにあの見慣れた不遜な笑顔をよぎらせると、中指を立てて舌を出し、最後に一度だけ手を振って、離れていった。その背中はついぞ毅然と凛々しく、その足跡も迷いなくまっすぐで、忍足はその黒い見慣れた姿が見えなくなるまで、彼の軌跡が新しい雪に覆われて見えなくなるまで、じっとその場に佇んでいた。いつまでもいつまでも、佇んでいた。 (fin) あとがき満足に書ききれなかった感がいなめないですが、これでとりあえず、おしまいです。すいませんでした。(土下座)跡部がいざテニスからはなれ、みんなの前を去ってしまうとき、忍足(と宍戸)は地味に一番ショックを受ける人物だと思います。でもさびしいとか、くやしいとか、かなしいとか、そういういがいがした感情に慣れてなさそうなタイプなので、なんだか普段の抜け目なさが嘘みたいに、子供っぽいぶきっちょな反応をしてしまいそう。おしあとのつもりではありません。 |