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何がきっかけだったかなんて、わからない。でも自分は今、確かに、とんでもないミスを犯してしまったんだと、閉じられたドアの前、財前光はぼんやりとひとり思考した。自覚すると同時に、プツッと音を立てて、世界から色が失せる。てのひらに、じわじわと湧き上がってくるものの正体が、冷たいのか熱いのかさえわからない。耳鳴りがして、財前はゆっくりと自分のピアスだらけの耳たぶに触れた。聞こえない。何もかもが途絶えている。世界が自分を置いてけぼりにして、自転を始めた、と感じて、財前はゆっくり視線を床に落とした。どうして。何も、わからない。いいや、正しく表現するならば、わかっているけど、認めるのが恐ろしい。そう、恐ろしい。自分は怖い。怖がっている。だってわからない。どうしたらいいのかわからない。あの人に関しては何もかもが、俺には宇宙の出来事のように遠い。遠いのに、近い。それが怖い。俺はあの人が、恐ろしくてたまらない。 些細な言い合いだったはずだ、と思う。そもそもからして、財前と彼――忍足謙也が、和やかにのんびり談笑できたためしなどない。それは財前の口の減らなさが原因でもあったし、謙也の結論を急ぐセッカチさが起因でもあった。それでも大抵は、ふたりの口論はなにごともなく平和のもとに帰着する。「ほんまお前は、可愛げがあらへん」と、年上ぶった謙也の苦笑と妥協で、すべてがゆるりと包まれる。そんなときいつも財前は、ああ、自分はこの人に許されているんだなあ、と考えなくもないのだが、そんなこと、一度意識してしまったらとにかく落ち着かなくてたまらなくなるので、敢えて気付かないふりをしていた。 そう、許されていたんだ、今まで。財前はじっと自分のつまさきを見下ろす。口を開けば憎まれ口しか出てこない、起伏の乏しい無表情の自分を、謙也は――謙也に限らず、それはこの変わり者だらけの部活の奴ら全体に言えることだけど――いつだって仕方がない奴だなあ、と許してくれていた。しょうがないなあ、どうしようもあらへんなあ。そんな呆れとからかいの混じった彼の声を、財前はいつだって思い起こすことが出来る。何度も聞いた。何度だって聞いた。そういうしょうがない、どうしようもない自分のことを、謙也は諦めたり投げたりしないで、いつもなんだかんだ理由をつけてはそばに寄って来てくれていたから。財前のこれまでの起伏に乏しい人生の中で、そうした「スキモノレベル」は謙也が突出して異常だった。 しゃあないやん、苛ついてたねんもん、と、財前は誰もいない部室の中、胸中で呟く。たださっきは、ちょっと虫の居所が悪くて、言葉を選ぶ余裕がなかった、それだけの話や。返ってくる声はない。当たり前だ、心の中の声にこたえる超人が何処にいる。そもそも、ここには誰もいやしないんだ。練習は終わった。部員の誰もがいつものようにやんやと騒いで、今日の夕飯なんだろな、と歌うように帰っていった。謙也だって、財前とこんなことになるまでは、メシメシメシ、と単純にはしゃいで笑っていたはずだったんだ。 財前はじっと、つまさきを見下ろし続ける。表情は、傍目から見ても全く変化ないだろう。なんせ鉄面皮には年季が入っている。生まれつき表情筋が硬いねんな、とあの人に笑われて、無言でみぞおちに膝蹴りしてやったのはいつだったっけ。あの時も、謙也は「財前はほんましょうがないなあ」と言って、すべてをやんわり終わらせてくれた。まあ、慣れるとそれが可愛いねんけどな、といらないことまで言って、こちらの頭を沸騰させた。 だって、あの人が――謙也さんが悪いんだ。俺の横で、あの頭の悪い喋り方で、どこそこの知らないクラスの、マドンナだかなんだか知らないが、そんなよくわからない女の話なんかするから。どうだっていいやないか、女の話なんて今くらい。俺が横にいるときくらい。そんなことを考えながら、財前の思考のもう半分は、冷静に矛盾に対してツッコミを入れている。何が俺が横にいるときくらい、や。あの単純で不器用な鈍感の謙也が、人のそんな細かい胸中なんか察せるわけもないやん。ていうかそもそも、あの人最初っから何も知らんし。俺があの人にどんだけ全力投球かなんて、ひっとかけらも知るわけないし。ていうかああ、マジ俺キモイわ、ほんと、癇癪起こした女みたいなこと考えとる。自分で自分に盛大に引くわ。マジで終わっとる。 そう、終わっている、と、財前はまた胸中でひとりごちた。本当に自分は終わっている。あんな、どうしようもない単純バカで不器用で鈍感でお人よしな人なんかに、いちいち一喜一憂させられて。挙句の果て、俺はひとりでこのザマだ。顔を上げると、部長である白石がいつもヘアーセット用に壁に掛けて使っている鏡があって、その銀色の表面からはとにかくまったく可愛げのない無表情で、もうひとりの財前光が財前光を見つめていた。感情のかけらもない。優しさなんかどこにもない。表情筋が硬いんだ、とあの人は言ったけど、別にそんな物理的な理由じゃない。ただあの人のように、感情を表に出す意味がわからないだけで。 謙也は、怒っていた。いいやそれよりも、にわかに傷付いたような顔をした。傷付いて、戸惑って、それから何かをこらえるみたいなきつい顔をして、「もうええわ」と言って、財前を諦めて部室を出て行ってしまった。財前を理解することを、諦めて行ってしまった。それが、財前にはいっとうつらかった。自分が何を言ってしまったかなんて、売り言葉に買い言葉で全く覚えてないけれど、謙也に自分が諦められてしまったことだけは確かにわかって、彼が出て行ったドアをぼんやり眺めていたら、いつの間にか世界は全部閉じてしまった。色も音も温度も感覚も、魔法みたいに全部が消えた。あの人に見捨てられた、置いていかれた、それがこんなにも孤独でひとりぼっちで恐ろしいことだなんて、財前はちっとも知らなかった。知らないようにしてくれていたのだと、知っていたはずだったのに。 だのに、こんなにも恐ろしい思いをしているというのに、鏡の中の自分はちっとも表情が変わらない。お前、何を考えているんかわからへん。能面か。気持ちが悪いわと、テニス部に入部してすぐの頃、上級生に唾棄されたことを思い出す。ああ、これは確かに気持ちが悪いだろうなあと、財前は思った。こんなにも自分は孤独なのに、そんなときでさえ俺はやっぱりこうなのか。 謙也くん、と、あの人の名前を呼ぼうとして、でも返事がないのがわかっていたので、口を噤む。そんな風に財前は、無駄なことが嫌いだった。形に残らないものに労力を費やすことを、彼は憎んでさえいた。だから感情だってどうだっていい、だって世界の万象全ては、流れていくだけだと知っている。現に彼は行ってしまったじゃあないか。言い聞かせれば聞かせるだけ力が抜けて、財前は部室の隅のベンチにひとり、腰を落とした。同時にドッと体が重くなって、それとは反対に、もう自分には何も残っていない、からっぽだ、ということを認識せざるを得なかった。空っぽだ。すべては、財前を置いて行ってしまった。 でも、それなのに、財前はあの人を傷付けてしまったであろうことが、どうしてもつらい。それだけが、流れていかない。とどまっている。傷つけてしまった。怒らせてしまった。悲しませてしまった。それだけが、ただもう本当につらい。どうしたらいいのか、わからない。膝を抱えてうずくまり、目を閉じて、財前はひとりぼっちで思考する。許されていた。笑っていた。引っ張られた。引き寄せられた。引き寄せたい。そばにいてほしい。諦めないでほしい。この恋を、諦めないでいさせてほしい。ねえお願い、どうかお願い、 ど こ に も 行 か な い で ゴツリ、と鈍い衝撃を感じて、財前はバッと目を開けた。あ、眠ってた。知覚すると同時に、じんわりと頭蓋を覆う痛み。久しぶりに感じた外的接触の正体を確かめようとして、首を捻った財前は、しかしすぐに慌ててその顔を正面に戻した。財前の隣、ぴったりくっつくようにして―――謙也が眠っていたからだった。大口を開けて、だらしのない顔で、よだれでもたらしそうな勢いで、すやすや眠っている。財前にぶつかったのは、寄りかかる謙也のまさにその頭だったようで、脱色の繰り返しすぎでパサパサに傷んだ彼の金色の髪が、財前の頬を今もちくちくとくすぐっていた。 財前は、まっすぐに正面を向いて座ったまま、動けないでいた。動いたら謙也が起きてしまうかもしれないとかそういうこと以前に、まずそもそも状況が理解できなかった。なんで、このひと、ここにおるんやろう。俺を諦めて、投げやって、出て行ったんじゃなかったっけ?あんなにも悲しそうな、傷付いた顔をして、もういいって言って、いなくなってしまったんじゃなかったっけ?ていうかよくぞこんなにも不安定な体勢で、イビキかく勢いで熟睡できるものだ。変なところで器用な人なんやから。いや、今考えなきゃいけないんは、そういうこととちゃう。 混乱したまま、しかし傍目には無表情のまま俯くと、ベンチの下、財前の足許に、見慣れたアルミ缶の姿が見えた。学食前の自販機で買える、おしるこの缶。寝ている間、寝ぼけた財前がひとりで歩いてしるこを買いに行った――わけはない。同時に、「財前がぜんざいが好きって、何やねん。寒いわ!」とギャアギャア笑いたてていたいつかの謙也の声が、遠く近く脳裏にひらめいた。ああ、音が戻ってきた。おそるおそる空いた左手で缶を握ると、まだあたたかい。じわりと胸に広がる何か。温度さえも戻ってきている。 同時に、ぬくもりを右手にも感じた気がして、視線を移す。はたして、財前の血の気の失せた白い手は、高血圧でいつだって子供体温の謙也の左手に、ぎゅう、ときつく握りしめられていた。この手を離してなるものかと、それはいっそ何かの誓いとか願いにも似た強さでさえあって、財前はひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、まばたいたあと、……ゆっくりと俯く。あったかくて居心地の良い、逆らいがたい何かがそこで、財前のことをやんわりと包んでいた。流れていかない。とどまっている。許されている。笑っている。引っ張られている。引き寄せられている。引き寄せたい。そばにいてほしい。諦めないでほしい。この恋を、諦めないでいさせてほしい。 長い長い時間をかけてためらってから、財前は小さく、彼の手を握り返す。謙也はまだ眠っている。聞こえないとわかっているけど、ごめんなさい、と呟いてから、財前は俯いて、幾度もまばたきを繰り返した。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、滲む視界よ、早くクリアになってくれ。このひとを見つめ続けることを、諦めないでいたいから。 色も、音も、温度さえ、魔法のようにあなたが奪い、あなたが与える。ああ、だからこそ俺は、あなたが好きです。 <fin> あとがき飄々としてる子が、どんでん返しで絶望にたたきおとされた!みたいなシチュエーションが好きなんです。謙也くんは財前くんにとっての魔法使いであってほしい。いい意味でも、悪い意味でも、世界のすべてという意味で。 |