(何がしたいんか、さっぱりわからん!)
携帯の液晶パネルを眺めながら、謙也は大きく胸中で喚いた。あの悪態と皮肉の申し子――最近は奇縁で自分のダブルスパートナーとまでなった後輩――財前光からの1通のメールが、今、思うさま彼を悩ませている。
件名:アホ 本文:なし
「しまった、電話越しじゃ殴られへん…」
苦手な世界史の宿題も、明日の授業での指名予告をされては手を付けないわけにいかず、しぶしぶ重たい腰を上げた矢先の、このメール。殴りたい、ツッコみたい、心の底から!財前から縦社会に準じた殊勝な発言など、出会ってこの方謙也は聞いた試しもなかったが、それにしたってここまで一方的な便りを寄越されたことはないぞ、と思う。返ってくる言葉がいかに辛辣な悪態だろうが皮肉だろうが、こちらが向き合えばいつでも負けじと真っ直ぐに睨み返してくる、ある意味誰より素直な財前の性質をこそ、謙也は気に入っていたから。
むう、と口を曲げてしばし考えるが、やはり財前の真意は杳として知れない。というか真意も何も、馬鹿にされているとしか思えない。ただあの可愛いげのない後輩が、わりに合理主義で無駄な言動を嫌う事を知っているので、この暴言にも何かしらの意味がある………んだろう、と思いたい。 そもそも謙也は、じっくりと何かを考えるという事が苦手だ。性に合わない。案ずるより生むが易しという慣用句の存在など、謙也はさっぱり知らないけれど、彼は得てしてそういう性格だった。時間にして一分と経たない内に謙也は立ち上がり、液晶をいじって耳に当てる。窓枠に寄り掛かってつま先で床をひとつ、ふたつ、みっつ叩く頃に、コール音がためらったような気配で途切れた。少しだけ間を置いて、聞き慣れた抑揚のない後輩の声が、何すか、とこぼれおちる。そっけない、愛想のない、いつもの財前光の声。
「何すかって、そりゃ俺の台詞や。なん、あのメール。お前に敬われとらんのは知っとったけど、いきなりアホ発言はないんとちゃうか」 『…別に、アホやと思ったからアホ言うただけっすわ。ちょお気ィ向いて、思い付いた事適当に送ったろ思ただけやし』 「お前なあ…」
返される財前の声は、相変わらず淡々としていた。時刻は夜の20時47分、少し雑踏の気配がしている。うるさくもないが、静寂でもない空間。外だろうか。万が一何かしらの用事の最中だったなら、それはそれで悪い事をしただろうかとも思ったが、そもそもが用事のど真ん中にあんなメールを送信する手合いがいるはずもないな、と思い直す。そんなら一体何なんや。
『大体、なんでメールの返事が電話やねん。意味わからんかったんなら、無視しとけばええやないですか』 「アホ、意味わからんもん無視したったら、意味わからんまま終わってまうやん。それじゃあれやろ、ほん、ほんまつ、えー…」 『本末転倒』 「おん、それや」
ひとつ賢くなったわ、と笑う謙也に、しばらく黙ったあと、はあ、そういうもんっすか、と財前は言った。鈍感でアホで頭悪くてセッカチくせに、変なとこマメやなあと、かすかに笑う後輩の声の中には、呆れと慣れと脱力の気配がある。そこまで来て、謙也はぼんやりと、この後輩がいつになく緊張していたらしい事を感じ取った。何となくだけど、いつもと力の入り具合が違う、気がする。無駄と面倒を嫌うはずの後輩が、たった一言の悪態のために寄越したメール。馬鹿にされているだけとしても、その宛先が自分であるなら、そこに財前にとって、謙也が謙也である意味があるはずだ。
いよいよ、どないしたんや、と謙也が問い掛けようとした時、謙也の寄り掛かる窓枠の向こう、遠く近く救急車のサイレンが鳴り響きだして、顔を上げる。この近くには自分達の一族を含めて病院が多い。救急サイレンはしょっちゅうだった。この家は数年前に階下の医院の改装工事に伴って改築したのだが、家族の中では最も眠りが深くて図太いから、という理由で謙也がサイレンの直撃を受ける大通り側の部屋に当てられたのは、今や盛大な笑い話だ。テニス部員を家に呼んだときにその話をしたら、珍しくあの白石が腹を抱えて爆笑した事を覚えている。
そういう謙也なので、今の彼が気にしたのは、サイレンそのものではなかった。窓の向こうを尾を引くように遠ざかっていったサイレンの音が、片耳に当てていた携帯からも、全く同じタイミングで駆け抜けていったことに気が付いたからだ。同時に受話器の向こうから、やり切れなさそうな舌打ちらしきものが漏れる。まさか、と思って慌てて窓を開けると、忍足家の門の前、寄り掛かっていたらしい小柄な人影が、何故だか全力疾走で逃亡を図ろうとしている真っ只中だった。見慣れた黒髪と、夜に浮かび上がる5色のピアスにピンとくる。あんにゃろう!
「コラ財前、逃げんな!!」
帰ったら、メシがなかった。たったそれだけの話だ。それだけだとわかっているのに、財前は何だか自分がドラマや映画によくある孤独な子供のように感じられて、見るともなく爪先を見下ろす。部活帰り、いつもはやわらかく明かりを灯して末息子を待っているはずの財前の家は、今は暗く冷え切って、人気がない。当たり前だ、一家は今、息子の食事の用意どころじゃない突発事態に見舞われているんだから。 財前はぼんやり居間を横切り、ひとりパチリと電気のスイッチを入れた。わかっちゃいたけど誰もいない。ラケバを背負ったまま、手持ち無沙汰にテレビの電源を入れてみるが、特に見たい番組があるわけでもないのですぐに飽きた。リモコンを放り投げ、ソファに体を投げ出す。バラエティ番組のよそよそしいサクラの笑い声が、遠い出来事みたいに時々沸き上がって聞こえるのが、なお財前の寂寥を煽った。阿保らしい、今更小さなガキでもないっちゅうのに、寂寥って何や。キモいわ。
同居するようになって3ヶ月に満たない、義姉のお産が始まった、と母親からメールが届いたのは、部活が終わってすぐ、部室の扉を今にもくぐろうかという時だった。入院日は数日後だった筈なのに、予想外に陣痛が早くやって来たらしい。難儀な早産。付き添っていったらしい母親が慌ただしく出掛けて行った痕跡が、無人の居間にいくつも覗き見えた。兄はあれで仕事の忙しい身だから、恐らく定時までは身動きが取れないだろうが、一ヶ月以上前から欝陶しくソワッソワしていたのを鑑みるに、仕事が終わったら病院に直行だろう。父親はどうせ帰りは午前様だ。よくは知らないけど、出産云々には丸一日以上かかるという恐ろしい噂を聞いたことがあるから、そうなると自分はあと半日近くこの家で一人なわけだな、と思う。別に一人は嫌いじゃないけど、晩飯はどないしよ。コンビニでなんか買うてくればよかった。
横になったまま、制服の腕を目に当てると、薄く暗闇が訪れる。いつもだったら何も気にせずそのままうたた寝してしまえるくらいの環境なのに、何故だか思考は冴えていた。本当は、財前はとっくに原因がわかってる。ひとりぼっちが淋しいとかそういう甘えを乗り越えて、もっとわかりやすく、直裁的に財前を苛むもの。こんな事になるって思ってなかった昨日の夜、財前は義姉と些細な口論をしたのだった。
何がきっかけかなんて、全く覚えていない。ただ入院の準備に追われる義姉が、部活帰りの財前に何気なく、「この子が産まれたら、家が狭なるねぇ。光くんに悪いわ、ごめんなぁ」と笑った事が、無性にカンに障った事だけ覚えている。謝られる事じゃないと思ったのもあるし、謝ったところでどうするつもりもないくせに、と思ったのもあった。往々にして財前は兄夫婦に深く関わり合う事を避けていたが、両親はもちろんその限りではなく、同居が始まって以来、財前だけが夫婦への距離を持て余すような日が続いていた。和やかに談笑し合う家族の姿や、親しみ深く自分に接してこようとする義姉に上手く言葉を返せない自分を意識すると、まるで自分ひとりが異邦人になったような気持ちさえして、そういう時の財前が選べる選択肢は、始めから沈黙以外にありえなかった。口下手には定評がある。言わずとも汲み取ってくれる、もしくはまるごと無視してくれる人間が周囲に多かった事が、不幸なのか幸いなのか財前にはわからない。ただこの時の義姉の言葉には、自分でさえ持て余しているこの曖昧模糊な感情をも適切に表現できなければ、まともに返事が出来る類ではない、とだけが、わかった。
結局無難に黙り込み、別に、とだけを何とか返した財前に、しかし義姉はとても悲しそうな顔をした。露骨に透ける傷心の表情に、財前は舌打ちさえしたくなって、何とか堪える。自分の口の悪さや足りなさをハナから知ってくれている人間なら、絶対にこの程度で傷付いたりなんてしないのに、こうする以外あんたは俺にどうしろって言うんや。何を言えって言うんや。もっと自分が余裕のある振る舞いが出来たら、そう例えば部長−白石のようになれたなら、あんたはそんな顔せえへんで済むんやろうか。
苦々しい気持ちで俯いた財前の心情の機微を、けれど義姉はまたよりいっそう感じ取ってしまったんだろう。完全な悪循環だった。埒があかない、とそのまますれ違って部屋に戻ろうとした財前に、義姉は冗談にするような明るい表情と声を作り、こう言った。「この子が産まれて落ち着いたら、暁と家決めてすぐ出ていくから、勘忍してな」と。 一瞬、何を言われたかわからず、頭が真っ白になる。そのあとは、爆発するみたいな苛立ちが膨れ上がって、もう駄目だった。
「誰もあんたにそないな事言うとらんやろ。出て行くんなら俺のが先や、そないに居場所欲しいんやったら、すぐにでも部屋空けたるから安心せえ!」
らしくもなく怒鳴り付けた自分に義姉がどんな顔をしたかなんて、とても怖ろしくて振り返れるわけがなかった。結局そのまま部屋に逃げ帰り、それきり義姉とは顔を合わせていない。義姉は兄にも母にもこの経緯を話していないようで、今朝方顔を合わせたふたりは全くいつもの通りだった。けれど、きっとあの人は嫌な思いをしただろう。わかりやすく親切で素直な人だから、財前の言葉を真摯に受け止め、傷付いたかもわからない。こんなだから、俺に構うのなんて止してくれたらよかったのに。優しくなんか出来ないんだから、素直にも無邪気にも振る舞えないんだから、放っておいてくれたらよかったのに。 起き上がり、時間を確認する。今頃あの人は出産真っ只中だろうか。出産は、鼻からスイカを出すくらい痛いんやでって部長に聞いたことがあるけれど、それが本当ならとんでもない話だ。ただでさえ早産は問題が多いと聞くのに、大丈夫なんだろうか。こんな事になるんなら、あの時もっと我慢を効かせてやったらよかった。後悔は後で悔いるから後悔なんやでって、これも部長が言っていたけど。その白石は今日の部活の際も、財前の様子が普段と違うことを敏感に感じ取ったようで、しかしそれでいて余計なことは差し挟まず、ただ率直に「大丈夫か」と聞いてきた。別に態度に出したつもりはないのに、その上近くで観察されていたわけでもないのに、本当、一筋縄じゃいかないお人や。癪に障って「何がっすか」と言い返したら、肩を竦めて「自分で処理できるんやったら、聞かへんけどな」と笑い、行ってしまったけれど。
そして白石を思い浮かべると同時に財前の脳裏に浮上したのは、その白石と対極の存在である、財前のダブルスパートナー・忍足謙也のことだった。今現在、部活の中で財前が最も距離を近しくしているのは、同学年の誰より、ましてあの超越的な白石よりも誰よりも、パートナーである謙也だった。別に財前から積極的に寄っていってそうなっているわけではなく、なつっこく面倒見のいい(とは謙也自身が自負しているだけで、必ずしもそうというわけではないと財前は思っている)謙也のほうが頻繁に財前を構いに来る、というスタンスで。もちろん自分はこの性格なので、構われるたび後輩とは思えない不遜な態度で迎え打ってやっているのだが、とにかく鈍感で細かいことを気にしないタチである謙也には、入部初日から今に至るまで、それら一切を気にしたそぶりがなかった。思えば財前が何を言おうと言うまいと、全く動じない、というかハナから気にしない存在代表は、この謙也かもしれない。――それはもう、とにかく鈍いのだ。特別近くで接してさえいなかった白石が感じ取る財前の機嫌の機微なのに、真隣にいた謙也といえば、それはもう見事なほどに一切察してくれた様子がなかった。いや、別に感じ取って欲しいわけじゃないけれど、日頃「何かあったら俺に言い!何でも相談に乗ったるで!」とスカしているわりに、肝心なところで白石においしいところを持っていかれている謙也のことは、ぶっちゃけアホだと思う。あれで医者の息子だっていうのだから、世の中の仕組みは意味がわからない。けれど「そういう」謙也だからこそ、自分なんかとのんきにダブルスやれるんだろうなあとは、思うんだけど。かわいげがない、と叩かれることや睨まれることの多かった財前のテニス史において、謙也の存在はレアだ。当たり前のような顔で当たり前のように隣にいるから忘れがちだけど、時々我に返る。あの人がスキモノだ、ということ。例えば昨夜、義姉と分かり合うことの出来なかった、そういう時にこそ。
謙也はどうしているだろう、と思った。アホでバカで鈍感で、空気の読めない先輩だけど、こんな時だからこそ、財前を何も理解しはしない、動じはしないあの人の、アホで不変な笑顔が見たい、と思った。そして一発殴ってやれたら、適当に軽口叩いて胸をすかすことが出来たら、どんなに気が紛れるだろう。思い立ったら早かった。謙也の家の詳しい位置は知らないけれど、最寄り駅は知っている。家が内科と小児科をやっていると聞いているから、駅員に聞くなりタウンページで調べるなりしたら、場所はわかるだろう。空腹なんてどうだっていい。どうにでもなる。置いたばかりのラケバから財布と携帯とキーウォレットだけを抜き去って、財前は無人の家を飛び出した。一刻も早く、あの人をアホと罵ってやりたい。それで気安い会話をして、くだらないやり取りを繰り返して、なんでもない夜を過ごしたい。別に一人は嫌いじゃない。ただ慣れないだけ。どうしても、慣れないだけだ。
財前は、忍足家を過ぎて50m程先、児童公園の前でほどなく捕獲された。伊達にスピードスターを自称してはいない。首根っこを掴むと、彼はほんの少し悲鳴をあげたが、それからにわかにおとなしくなった。大きな動物を手なずけた気持ちになりながら、謙也はとりあえず彼を公園のベンチに誘う。ポケットに小銭を入れっぱなしにしていて助かった。コーヒーでいいかと尋ねると黙って頷く。ベンチに腰掛けた財前は、1時間前の部活帰りに別れた時のまま、制服のスラックスにパーカー姿だった。
「…おん」 「………どーも」
コーヒーを手渡すと、掠れた声で礼を言う。よく家がわかったな、と言うと、忍足医院って駅前の看板に出てました、と淡々と返事が返って来て、そういえば、と黙らされた。それきり会話がなくなる。財前の表情はいつもと変わらず眠たげで抑揚がないが、敢えてその顔を「選ばれて」いたなら、謙也には見抜けない自信があった。もちろん、出来るならそんな自信なぞ持ちたくはないけれど、この世に生まれて15年、謙也の周囲はこぞって謙也を鈍感だ、空気が読めないと叩くので、いい加減本人も認めざるを得ない域まで来た、というだけの話だった。認めたところで具体的な解決策が見出だせないあたりが、ちょっと情けないんだけれども。 とりあえず隣に座り、財前の横顔を盗み見るが、やはり考えていることは読めない。しかし謙也は待つ事と推察することが苦手だ。おろおろ、そわそわしていると、財前の方から「謙也くん、キモい。そんななるくらいなら、何や喋ってくださいよ」、と急かされた。キモッ…て、お前、言っていいことと悪いことがあんねんで!!と睨むが、財前はやはりそ知らぬ顔だ。わからない。けれど捕縛してからというもの、しつこく前だけを向いて謙也と目を合わせようとしないことにまで、気が付かないわけじゃない。財前にとって、謙也が謙也である意味。ゴチャゴチャ考えて身動き取れなくなるとか、俺らしくもあらへん。せっかく捕まえたんならそこんとこ、徹底的に解明したろうやないかい!
「よっしゃ財前、今日はどないしたん?俺でよければなんだって話聞いたるで!!」 「……………直球やな、相変わらず」 「よしなや、さすがスピードスターなんてそんな」 「褒めてへんわ」
スパッとツッコミが入る。財前は基本的、テンションは低いがノリは悪くない。飛ぶように会話が進むスピード感や率直さは、謙也が気に入っている財前の美点のひとつだった。とりあえず、この反応のすばやさから言って、具合が悪いとかそういうわけではないらしい。ひとつ、問題をクリアした気になる。
しかし、問題はそこからだった。「で、どないしたん?」と改めて問い掛けると、財前はいつもの通り、生意気に口許をゆがめてから口を開きかけ(おそらく皮肉か嫌味を言おうとしたんだろう)、――なぜだか黙ってしまった。おや、と思って見ていると、その視線を避けるように俯いて、ぼそりと、「わからん」、と、言いにくそうに呟く。……解明どころか、ますます意味がわからなくなってもうた。白石に、「驚いた時に口ぽかっと開ける癖、やめぇや」としばしば言われていたけれど、どうしても止められず、間抜けにほうけていると、そんな謙也が癪に障ったらしく、財前が前髪の隙間から射殺すような目で睨んできた。久しぶりにこちらを見たと思ったら、随分といらだった表情をしている。
「……、わからんもんは、わからんのやからしゃあないやろ。俺はただ、あんたを、…からかって殴って遊んだって、それでウサ晴らしたろ思ただけで、」 「うおおおい。どないやねんそれ!つかウサって何や、なんやお家であったんか」 「何もあらへん」 「何もないわけないやろ。お前、こっからお前ん家まで、どんだけ離れとる思てんねん。いつから下おったんか知らんけど、冬始めに外で待機とか、そんな真面目なんドラマの刑事さんくらいやで、なぁ」 「……うっさい」 「財前」 「うっさい!!俺に干渉すなや!!!」
急に声を跳ね上げて立ちあがった財前に、瞠目する。しかし、謙也以上に驚いた顔をしていたのは、その謙也に怒鳴りつけた財前本人だった。自分が声を荒げたことを理解するまでに、時間がかかったようで、しばらくキョロ、と目を泳がせてから、サッと顔色を変える。ベンチに座ったまま、再び呆けて自分を見上げる謙也に、財前はゆっくりと俯き、やがて小さく、「すんません」、と呟いた。これまた珍しい、財前の素直な謝罪なんて。抑揚がない、かすれた声は、声だけならいつもと全く変わらないように聞こえるけれど、立ち上がって俯いている財前の顔を覗き込むようにすると、ふい、と顔を逸らされる。垣間見えた表情は、ただただ歯がゆい、というように歪んで、怒り出したいような泣き出したいような、複雑に混ざった色だった。末っ子の顔。謙也は無意識的に苦笑して、向かい合うとゆうに10センチの差がある財前の、ワックスでとげとげしく固められた髪に手を置いた。ぐしゃり、と、かき混ぜる。払いのけよう、という風に財前の腕が動きかけるが、それより先に謙也が口を開く。
「財前。そないな顔すなや」 「……どないな顔やっちゅーねん」 「泣きそうやで。ほんま何があってん」 「…別に。あんたに話してどうなることでもあらへん」 「でも、どうにかしたいんやろ」
違うか、と問い掛けると、財前は俯いて黙り込む。幼い子供のかたくなさ。夜の中に、5色のピアスがちかりと反射した。
「な、思てることあんねんなら吐き出してまえ。お前らしくもない。言いたいこと堪えなや。そら俺は白石みたく察し良くあらへんけど、これでも先輩で、お前のダブルスパートナーやねんで。ちょっとくらい、何かさせてくれたってもええやん」 「……察し良くないって自覚はあったんすね」 「口減らんやっちゃな!!」 「それが、ウリなんで」
言い返してくる財前は、けれど先程よりにわかに落ち着いたようだった。何度か浅く、深く息をしてから、「聞いてもええですか」、と静かな声で問い掛けてくる。「どうぞ」、と物々しく腕を組んで答えてやると、財前は笑えばいいのか突っ込めばいいのか複雑な顔をしてから、俯いて、ぼそぼそと口を開いた。
「謙也くんは、メンドイ思たことありますか」 「何を?」 「………俺んこと」 「何で?」
質問の意図が読めなかったので端的に問い返すと、財前は虚をつかれたように瞬いた。レスポンスが早すぎて対応が出来なかったようで、きょろ、と少し視線をさまよわせてから、口をかすかに尖らせる。
「俺、わかりやすくはあれへんやろ」 「あー。仏頂面やし、憎まれ口が多いから?そんなん今更やん」 「…………謙也くんは悩みがなさそうでええっすわー」 「ちょ、ほんま少しは気ィ使え先輩に!……何や、誰かになんぞ言われたんか?」 「別に。何も言われてへん」
どころか、あの人は俺には何も言わへん、と付け足して、財前はまた下を向く。どうしてここまでやって来たのかわからないと、そう言った感情さながらに、今の財前は迷子のようだなあと、謙也は思った。再度、財前の髪をくしゃりとかき混ぜる。今度はもう、払いのけようとする動きもなかった。
「せやなあ。俺は鈍感やから、そないな風に黙り込まれてまうと何もわからんし、いつもの財前がええわ。調子狂ってまう」 「いつものって」 「相手が誰でも気にせんで、言いたいこと、言いたい放題言う財前光や」
財前が、物言いたげな目で見上げてくる。謙也は笑って、財前の手を引いて歩き出した。
「どこ行くんすか。……つか、手、」 「チャリ取りに帰るんや。目的地は知らんで、お前が指示してくれなわかるわけないやん。お前はどこ行きたいん?」 「どこって、俺は別に、」 「ざーいぜん」
振り返らないまま名前を呼ぶと、どこか悔しそうな沈黙が漂ってきて、謙也は笑いをこらえるのに苦労する。走って走って後輩を追いかけた距離は、しかしあっという間だ。すぐにも見えてくる自宅の車庫を目前に、謙也はもう一度問い掛ける。
「な、財前、どこ行きたいん?連れてったる。飛ばして行ったるで」 「………。謙也さんはほんま、」 「おん?」 「……なんでもないっすわ」
幾度かためらうように瞬いてから、財前は静かに息を吸って、「青枝総合病院に、お願いします」と呟いた。財前の指定した病院は、忍足医院では対応しきれない急患や重症患者が出た際に、よく搬送を依頼する地域の総合病院だ。よっしゃ、と気合を入れて、辿りついた車庫に停めてある、シルバーブルーのマウンテンバイクに跨る。サイドステップを指し示すと、財前は黙って謙也の背中側へ回り、目はあわせないままで頷いた。
「ほな、行くで!」
ペダルを踏んで、力強く前へ漕ぎ出す。慌てた財前の手が縋るように謙也の肩を掴んだのを最後に、ぐんと風を切って走り出したマウンテンバイクは、二人分の体重を受けても微塵も揺らがない。医院の脇道を少し行けば、ロータリーを回って駅前へ続く勾配の急な坂道になる。気持ち程度にブレーキをかけながらペダルを漕ぐ謙也の肩を掴む指に、ぎゅ、と力がこもった。次いでこつりと触れる、あたたかな何か。かぼそく弱く、近い呼吸。風に紛れた「おおきに」、という言葉には、気が付かないフリをしてやった。
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あとがき
スランプ期間にちょこちょこ書いては、「あー」ってなってやめて、を繰り返してここまできたお話です。その上結局続く、という。(最悪や!)思春期の男の子が、いきなり10才くらい年の離れた家族未満の他人と一緒に暮らすのには、いろいろな葛藤があるんじゃないかなあと思って書きました。子供っぽくて末っ子で迷子な財前くんと、アホだけど長男で先輩な謙也くんが表現したかったのです。続きは近いうちにあげたい!
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