白石は、何も言わない。彼が謙也と交わすのは、たわいのない世間話、揶揄、それからテニス。白石蔵ノ介という人間はそも、一定量以上の感情の揺らぎを覗かせることからして珍しい人種だった。笑いもすれば怒りもする、ネタを振れば付き合いも悪くはない。いくら四天宝寺内外の彼の異名が「聖書」だったとしても、いわゆる「お高くとまってる」タイプには決して見えない男だ。それなのに、彼が自分に――謙也に見せてくれるものは何もない。あいつが俺に許してくれてるもんなんてなんにもないんじゃないだろうかと、謙也はいつもどこかでそう感じている。 正直すぎて嘘やごまかしの効かない性質の自分を、白石は大概の場面で「要領が悪い」と苦言を呈したが、その中でごくたまに、混ぜ込むように「美点や」とも褒めた。「謙也は大概アホやけど、まあ、それは謙也の誰にも真似でけへん美点でもある。せやから、大事にせんとあかんで。」日頃は散々鈍感だデリカシー皆無だと叩くくせに、時折なんの前触れもなくそんなことを言う白石の意図が読めなくて、謙也はそのつど返す言葉を失ったものだった。いや、もしかしたら前触れはあったのかもわからないけれど、白石以外の人間にだって会うたび会うたび鈍感代表と言われ続けて15年の自分には、そんな兆候が感じ取れる筈もない。白石には隙という隙がなかった。出会って丸々3年。初対面から、いわゆる「思い」を告げ合った今でさえ、それは白石という世界の、不変の法則にも思える。
お前が好きや。お前が欲しい。俺、お前ん中の特別になりたいねん。 セッカチな謙也が彼なりに思いつめ、耐え、粘った結果、白石にそう正直な気持ちを告げることを選んだのは、3ヶ月と少し前だ。白石は2年生の頃からもう部長を任されていて、既に部内の誰よりも強かったけれども、その強さや才能に驕ることは一度もなく、寧ろ誰よりも努力と地道な鍛錬を怠ることがない男だった。半年前のその日もそうだ。部員が全員帰ったあとでさえ、ひとり黙々と自主練を積んでいたんだろう白石の、凪いだ湖面のように静かな横顔。何の感情も激情も読み取れないのに、無限に散らばったテニスボールの海、夜闇の黒の中にひとつ、光の花のように咲いた凛と伸びた白石の背中を見たとき、何かの神託のように唐突に、こいつが好きだ、と謙也は自覚した。そして同時に、こいつのそばにいてやりたい、とも。きれいで強くて優しくてモテて、ありとあらゆることをソツなく何でもこなすことの出来る彼に、手軽な憧れじみた気持ちなら、ずっと前から抱いてる。でも、そのとき謙也を突き抜けた嵐は、そのどれとも種類の違った感情だった。教科書で習った言葉でなんて、到底説明がつかない。強いて似た言葉を探すなら、それは恋というものにいちばん似ていた。それだけの話だ。
告白を決行したその日、さしもの白石も同性、しかも友人からの唐突な告白には驚いたようで、しばらくあっけに取られたように瞬きを繰り返していたが、やがて持ち直した彼は淡々とした声で、「ええよ、なら付き合おか」、と答えた。これにドギモを抜かされたのは謙也のほうだ。まさかそんなにやすやすと、自分の気持ちが受け入れられるなんて。目を白黒させる謙也を、しかし当の白石はいつもの涼しげな「部長」の表情で見下ろすばかりだ、その余裕が逆に謙也の気持ちなどまるで意に介さない、と言っているようにも思えて、驚きのあとにじわじわと湧き上がった怒りにまかせて、いつの間にか謙也は白石を怒鳴りつけていた。ふざけんな、俺は本気で言うとるんや、と。けれど、答えた白石の表情は真顔だった。俺かて本気や。そもそもお前に、こんなシャレにならん嘘言い切れる気概なんかないことくらい、俺がいちばんわかっとるっちゅうねん。 論を封じられた謙也が苦し紛れに、じゃあなんでお前そんな余裕やねん、と言ったら、白石は苦笑して、お前には平気そうに見えるんやな、と答えたので、謙也は何も言えなくなってしまった。何となく、鈍感な自分だから明確な予感じゃないけど何となく、今の自分の言葉は白石を傷つけたんじゃないだろうか、と思ったからだ。黙り込んで俯いた謙也に、白石はすぐにいつもの整った笑みを浮かべて、そんじゃまあ手始めに、カップルらしく一緒帰ろうや、と謙也の背中を叩いた。先手を取って告白した方が受け入れた方に気遣われる、という状況は今考えてもどうにも情けないが、とにかくそのときの謙也には余裕がなくて、白石にかけるべき言葉を他に見つけることが出来なかったのだった。
いざ付き合い始めてからも、白石はいつもそんな調子で、いつでもどこでもどんな時でも、決して涼しげな様相を崩さなかった。笑いもすれば怒りもする、ネタを振れば付き合いも悪くない。相変わらずだ。だけど彼は、自分からは決して何も言おうとしない。謙也が無人の部室で手を握っても、ハグをしてもキスをしても、彼はいつも泰然とした態度でそれを受け入れ、顔を赤らめることも青ざめさせることも一切なかった。もちろん、彼が自分からそれらの「愛情表現」を望んだこともない。好きやでと告げて、俺もや、と返ってきたことも、もちろんない。「ああ」、と、頷かれるだけだ。拒否されたこともまた一度もないから、嫌われているわけではないんだろうとはかろうじてわかるけれど(かねてから、白石には嫌なことは嫌だと言い切ることの出来る強さと容赦の無さがあった)だからといって安直に好かれている自信も持てなくて、謙也は次第に白石のことが恐ろしくなった。あの涼しい微笑の下で、彼が一体何を思って自分に接しているのかがわからない。白石に感情がないわけじゃないと知っているはずなのに、それでは、それなら、白石はどうして何も言わないんだろう。言ってくれないんだろう。結局白石が俺に許してくれてるものなんて、何もないんじゃないだろうか。近頃の謙也の思考の結論は、いつもそこで帰着する。
事態が思わぬ展開を見せたのは、6時限までの授業が全て終わり、部活へ移動しようとした矢先のことだった。学活が終わって下校の喧騒に包まれた教室の中、ふと謙也が視線を移すと、白石の姿がなかった。ついさっきまで授業の時と変わらず、席に座っていたはずだったのに。3年に進級してからは、同じテニス部であるという以外に同級生という共通点も持ったふたりは、付き合う付き合わない以前から、揃って部室へ移動するのが習慣だった。だからこそ、白石が何も言わずにいなくなってしまうなんてこと、あるはずないのに。 思わず探しに席を立った謙也が白石を見つけたのは、しかし案外すぐのことだった。部室へ移動する渡り廊下の裏手、少し校内の喧騒が遠くなる倉庫の脇に、見慣れた背中が佇んでいる。予想外だったのは、立っている彼の前に、対峙する相手がいたことだ。ゆるく巻いたウェーブの髪、小柄で甘くやわらかな雰囲気。上履きのカラーから言って、下級生の女子だった。すぐにシチュエーションに思い至って、謙也はかけるべき声を失う。白石はとにかく、学年問わずよくモテるのだ。秀麗な顔立ちに凛とした空気。絵に描いたような王子然に、入学当初から彼を追いかける黄色い悲鳴が止むことはなかったな、と思い起こす。当の白石はと言えば、今はテニスに専念したいからなどと言って、大概は告白を受けるたびに断っていたようだけれど。 状況はやはり、謙也の想像通りのようだった。少女の顔立ちは砂糖菓子に似て甘くかわいらしく、自分がもし白石の立場だったら、もろ手を挙げてお付き合いさせていただきたいくらいや、と思う。今までの歴史があるから、たぶん白石は今回も告白を断るのだろうけど、でもああいう女の子なら、あいつとはお似合いなんやろなあ。
複雑に事態を見守る謙也の存在に気付くことなく白石の静かな声は、謙也の予想通りに、悪いけど、と答えた。下級生の少女は、見ているこちらが哀れになるくらいに目を潤ませて、それからかすれた声で「わかりました」、と答える。今回の子は、引き際のわかっているタイプのようだ。控えめで思慮深くて――いい子なんだろう。白石がわずかに、ふ、と息を吐いたことが背中側から見て何となくわかった。
「あの、先輩。最後にいっこだけ、聞いてもええですやろか」
立ち去ろうとして踵を返しかけた下級生が、ふと思い出したように白石を振り返る。白石は首を傾げて、どうぞ、と答えた。多分、罪滅ぼしになる、と考えているんだろうなと、謙也は思った。
「先輩って、好きな人とかって、おるんですか?」
ぎょっ。思いも寄らない質問に、一部始終を眺めていた謙也の肩が跳ねる。あの縁もゆかりもない女の子に、自分の心を覗き見られているような心地さえして、謙也はひとりで慌てて首を振った。いやいやいや、そんな馬鹿な。ああ、でも、白石。お前は一体どう答える?何の前触れもなく唐突に、お前の事が欲しいと言った、そんな空気の読めなくってセッカチな俺を、お前は一体何を思って許してくれているんだろう?嫌われてはいない。憎まれてもいない。でも自分が白石を愛するようには、白石は自分を愛してくれてはいないだろう。それだけがわかる。それだけしかわからない。なあ白石、俺はお前んこと、好きでおってもええんやろか?
白石も、質問の内容は予想外だったんだろう、逡巡しているような沈黙が落ちる。もうその僅かな沈黙さえも、死刑宣告のようにさえ思えて、つらい。息がつまる。白石、白石、――なあ、白石。お前は一体、何て答えるんや。受け入れはした、でも許してはいない。何も教えてはくれないお前は、俺のいないこんな世界でだったら正直に、お前の言葉で、声で、すべての答えを広げて見せてくれるんだろうか。ああそれは――あんまりにも残酷や。
気付いたら謙也は走り出し、対峙するふたりの間に飛び出していた。突然の闖入者に、当事者ふたりの目が丸くなる。特に白石の泡を食ったような表情は可笑しくて、かわいくて、同時にたまらなく切ない。
「ごめん、そろそろ、部活始まる時間やから。こいつ、連れてくな」
適当なことを言って、硬直している少女の前から、白石の腕を掴んで引っ張り去る。白石は驚くほど無抵抗に、謙也の後を付いて来た。数回、謙也、と戸惑ったような声に呼ばれたが、返事をせずに引っ張り続ける。駆け足にも似た速度で、前へ。3年校舎を曲がったところで、謙也はようやく白石の腕を放した。そのまま立ち止まる。足を止めた謙也に倣い損ね、数歩たたらを踏んだ白石は、しかしすぐ持ち直し、わずかに狼狽した風に謙也を見た。整った顔立ちの中の、「完璧」らしからぬ彼の表情。矛盾を思うだけでどうしようもなくなって、謙也は口許をゆがめた。消化しきれない感情が絵の具となって、ない交ぜになってぐちゃぐちゃに表れる。自分は本当に正直だ、嘘がつけない。お前はきっと、また肩を竦めて呆れるんだろうとわかってる。だけど、――だけどだからこそ、俺たちはこのままではいられない。予感なんかじゃない、願望でも甘えでもなくて、お前がお前でしかいられないのと同じように、これは俺が俺でおるための。ただ、それだけの。
「謙也。お前、その――いつから聞いとったん」
彼の口調は少しばかり、いつもより早口だった。まるで、ドラマの中で浮気を言い訳する男の台詞回しのようで、それが謙也には少し可笑しい。白石が浮気って。そもそも告白を受ける事自体は浮気でもなんでもないし、第一、――白石が女の子と恋をしようと、自分には最終的に責められることなんか何もないのだ。だって、スタートラインからして違うのだ、俺と彼。好きだと言ったのは俺だけで、白石はそれに頷いただけ。受け入れはしたけど、認めてはいない。嫌ってはいないが、愛してもいない。謙也は静かに、拳を握る。なあ、白石、白石。頼むから、俺に、お前の声で―――決着をつけさせてくれ。逃げてばっかりでおるんは、俺の性に合わへんのや。なあ、白石。お前が1番、そういう俺んこと、よくわかっとるはずやろう? だから白石。もう、曖昧なままでおるんは終わりにしよう。謙也は静かに、顔を上げた。目が合う。白石は常のように泰然とした様子を崩さないまま、かすかに眉を寄せてこちらを見ていたが、視線がぶつかった瞬間、肩がぎくりと揺れたのだけは目に入った。
「白石。俺のほうが逆に聞いてもええか。――なんで、告白受けんかったん」
問い掛けると、白石はすっと表情をこわばらせた。整った精緻な顔立ちなだけに、白石から表情という表情がそぎ落とされると、その無はとても強い有になる。あの日も――告白した日もそうだった。あっけにとられた顔のあと、すとんと落っこちた無表情。しまいこまれたままの感情。「何でって、」淡々とした声が呟いた。「当たり前やろ。俺はお前と付き合うとるんやし」
「ほんまに、そう思っとるんか」 「………どういう意味やねん」 「俺、わからんくなってん。お前が何思って俺に付き合うてくれてんのか。このまんまズルズルお前に甘えたまんまでおってええんか、わからんねや」 「甘えるって。なんやそれ」 「俺、お前んこと好きや」
もう何度も繰り返し、伝えた言葉。白石はわずかに逡巡したように目をさまよわせたが、小さな声で答える。
「――知っとる」 「うん、何度も言うた。俺はお前んことめっちゃ好きや。めっちゃ欲しいし、お前ん中の1番になりたいし、お前の1番近くにおるんは俺がええ。けど、…けど、わかっとったことやけど、お前はさ、――そうちゃうやろ」
口にするだけで痛みの伴う事柄っていうものは、確かにある。謙也は自身の胸元をきつく押さえた。心臓が竦み上がるような心地。胃の「ふ」をそのまま掴まれて、ひねり潰されているような気さえする。俯いた。白石の顔は到底見られる気がしない。
「―――謙也、俺はええ、言うたで。お前と付き合うたんは、あん時俺がちゃんと選んで決めたことや」 「せやけど!俺、頭悪いから、よう言えん。けどお前、めっちゃ完璧やん。めっちゃ強いし、頭いいし、優しいし、何でも出来るし、聖書やん。せやから俺、お前んことがわからんようなってきてん。何でお前、俺と一緒におってくれんねやろとか、ほんまに俺とおってええんかなとか、――さっきん女子やって、可愛ええ子やったやん。断るほうがおかしな話やろ。俺、わからん。でもこのまんまお前によっかかってお前んこと独り占めしとんのは、何かちゃう気ィするねん」 「よっかかってなんかおらん、俺はあん時、ちゃんとお前を、」 「白石。もうええ。もうええから、終わりにしとこ。俺、お前んことが何もわからん。わからんようなってしもた」
白石は黙った。ぷつりと、辺りに音が止む。静寂がうるさい。そこら中で賑わっているはずの生徒達の喧騒さえ、水を引いたように遠く沈んで掬い上げることは出来ない。謙也は待った。俯いたまま、白石の泰然とした静かな声が、わかった、と呟くのを。 白石は多分、決して10割の善人としては生きていない人間だ。気に入らない相手には容赦をしないし、少しだけ穿った、斜めから見た考え方をするところがあるから、皮肉を言わせたら誰も敵わない。だけど彼は優しいから、一度懐に入れた奴のことは、絶対に見捨てたり諦めたり裏切ったりしない。どんなに小さなものでも見逃さず、拾い上げて束ねて纏めて連れてゆく。勝つために。彼が彼であり続けるために。卑怯かもしれないけれど、だからこそ彼が「わかった」と頷くことを、謙也は確信していた。
「―――――」
けれど、いつまで待ってもその瞬間は訪れない。いい加減、耳を刺すような静寂が痛く、苦しくて、ついでに言えば止めてしまっていた呼吸が限界にきたのを最後に、謙也はゆっくりと顔を上げた。そうして、息を呑む。目の前に佇む白石は、――笑っていた。ただくだに、仕方なさそうに。同時に、どうしようもない既視感。時間が巻き戻る。3ヶ月前だ。俺が――俺が白石に、好きだと告げた日。どうしてお前はそんなに余裕なんやと訪ねた俺に、彼は、――白石は全く同じ顔をした。「お前には、余裕があるように見えるんやな」、と、あきらめたように笑って。 ぐ、と息が詰まって、謙也はまた右手でカッターシャツの胸を掻き握った。唐突に思い出す。あの時俺は確かに、自分が白石を傷つけたであろうことを知った。知ったはずだった。それなのにどうして自分はまた、白石に同じ顔をさせ――彼を傷つけてしまったんだろう?彼のことが知りたかった。彼が何を思って自分に触れ、自分を許してくれているのか、ただそれだけが知りたかった。こんなにもさびしい、諦めきったような笑顔が見たかったわけじゃない。
「―――白石、」 「…あー。あかんわ。結構こたえるもんやな。お前に“わからん”、言われるのって」
言われ慣れとるはずなんやけど、と、白石は俯いた。ミルクティーのような深みのある茶色の髪が、彼の表情を隠してしまう。どんなに試合で劣勢になっても、そもそも試合に出られなくても、先輩から不当な扱いをされても、いつだってまっすぐに前を見て、現実から目を逸らすことのなかった白石が、いま、謙也の前で頭をたれて、俯いている。たったひとこと、謙也なんかの言葉ひとつで。 白石という人間は、いつだって感情表現の手段が寡黙だ。感情的に言葉を荒げることもなければ、ノリに任せて体全部で笑ったり怒ったりすることもない。まして、鈍感代表と言われ続けて15年の自分には、彼の内面のこまかいところ、深い奥にあるところ、ハードルが高すぎて悟れやしない。まして、表情まで隠されてしまった今では。“そのはず”だった。
(………いや)
――言い訳だ、と思った。全部が全部。白石が好きだ。白石が欲しい。彼のいちばんそばにいたい。彼の中の特別になりたい。そう決意して、ぜんぶを投げ打つつもりで思いを伝えたのに、肝心の彼の心は自分なんかにわからなくて当然だ、なんて。矛盾しているにも程がある。逃げたくないと言いながら、自分はただ白石の本音から逃げていただけだ。わからなくなってしまった、そんな言い訳で、本当の意味で否定されるのが怖くて、彼の言葉をさえぎって逃げたのだ。知っていたはずなのに、彼は傷付かないはずだとタカをくくって、自分の痛みに怯えて白石を突き飛ばした。 愚かな俺!――わからないはずがないだろう?そう思う。そうじゃなきゃ説明がつかない、半年前のあの日、テニスボールの海の中、寡黙な白石の雄弁な背中に惹かれた理由。あの日は、ちょうど真夏の全国大会を終えたその日で、四天宝寺が準決勝で敗退した夜だった。たぶん、あのとき既に部内の誰より強かったはずの白石は、当時の部長や渡邊の采配によって2年生ながらもS1に配属されていて、けれど試合の出番は彼まで回ることがなかった。彼は負けたのだ、戦わずして。出されんくて、すまんかった、そう言って泣いた先輩に、白石は何も言わなかった。何も言わずに、笑って、お疲れさんでした、と言った。彼はあの日から、既に寡黙だったのだ。だけど謙也は見てしまった、部員が全員帰ったあとも、たった一人で戦う白石の背中。相手のいないコートに向かってたったひとり、戦わずして負けたその夜に。彼の沈黙の向こうに透けた、その何よりも強い誇りと心、そして「勝ちたかった」という無言の声に、謙也は恋に落ちた。そして誰よりも、俺がこいつのそばにいてやらなきゃと、そう思ったのだから。
欲しいのなら退いちゃ駄目だ、逃げたくないなら追えばいい、知りたいのなら、ひとりにさせたくないのなら、諦めたりするものか。だって自分は、こんなにもまだ、白石の事が好きなんだから。
謙也は顔を上げた。ぎり、と、歯を食いしばる。視線の向こうで白石は、俯いたまま、静かに唇を開こうとしていた。謙也の予想通りに、自分だけ楽になろうとした望み通りに、「わかった」と、導かれるままに呟こうとしているその彼まで、けれど謙也はあっという間に距離をつめ、その腕を掴んだ。その感触の強さにぎょっとした風に、白石が顔を跳ね上げる。ぽかんと瞠目されたまなざし、中途半端に開いたままのくちびる。そしておそらく迷子のように――まよってたよりなく揺れた視線。謙也の強く、きついまなざしに見上げられた、白石の表情がゆがんでいる。純粋に狼狽し、置いてきぼりにされたふうな顔だった。
「……謙也」 「その前に、白石、もういっこだけ聞いてええか。ずっと、聞きたくて聞けんかったんや。こわくてさ。アホな話やと思うかもしれへんけど」
謙也の独白に、白石がまばたく。彼はひとつ息を呑んで、視線をさまよわせたあと、「ええよ」、とかすれた声で呟いた。彼らしくもない、まるで裁きを待つような、決然として、それでいてよわよわしい表情だった。
(――でも、じゃあ、白石らしいって、なんや?)
それでさえ、自分が、自分たちが勝手に決め付けてこれ幸いとはめ込んだ、寡黙な白石への偶像崇拝なのかもしれないのに。
「じゃあ、ひとつだけ。―――白石。お前、俺にどうしてほしい?」
謙也の問い掛けに、白石はふたたび瞠目した。ひゅ、と、とっさに息を吸い込んで、吐き出して、もう一度吸い込んで、吐き出す。彼のその落ち着かない呼吸を眺めながら、謙也はじっと、待った。いらちな謙也は待ち時間は嫌いだ、何かを求め、じっと堪えることも何もかも。だけど今この瞬間ならば、いくらだって続いても待てると謙也は思った。待てる。待ちつづけることができる。あの日どんなに待ったところで、自分までまわることのなかった出番を、それでも白石が待ち続けたときのように。白石が、俺を見て、俺のために出す答え。欲しいものが目の前にあるんだ、だってあの日、俺の存在に気付くことなく、ただテニスコートの向こう側、ずっと遠い先を一人で睨んで戦い続けていた白石が、今、俺の前にいて、俺を見つめて立っている。ひとりではなく、そのまなざしに、俺の姿を間近に映して。
白石は、口を開きかけ、一度やめて、それからもう一度口を開き、
「いなくならないでほしい」
そう言った。思わずこぼれた、というふうな、彼にしては珍しい、何の意図も思索もない言葉。けれどどうしてだかそのときの謙也には、それが言論も達者で皮肉屋なはずの彼の本心なのだと、容易に知ることができた。だって、口に出した瞬間、白石が「しまった」という顔をしたから。試合でボール運びをミスったときでさえ(そもそもそんな瞬間さえ、3年間で数えるほどしか謙也は知らないのだけれど)そんな露骨な表情はしないだろう、といったふうなそれに、謙也はぐ、と胸が打ち震えるのを感じた。彼は完璧で、聖書で、努力や労苦にいつだって寡黙だ。たぶん、理解されることを、認められることを望んでいないから、彼はそういう風になった。だけど、それでも彼は十割の善人じゃないし、完璧であることや聖書であることに迷わないから、気に入らない相手には容赦をしないし、障壁となるものなら切り捨てて振り向きもしない。――その彼が、あの日、謙也の求めに応じた。謙也の喪失にふるえた。言い訳をした。迷子のような顔をして、いなくなるなと言葉をこぼした。だったらもう、それで答えなんかひとつなんだ。
じわじわと、湧き上がる感情そのままに、謙也は笑った。泣きたいのか、叫びだしたいのか、それとも心の底から笑いたいのか、謙也本人にさえわからなかった。わからないけど、たぶん、するべきことはたったひとつだ。
「キスしてもええ?」
掴んでいた指にさらなる力をこめて、白石の体ごと引き寄せながら、謙也は尋ねる。いまだ迷子の子どものような表情のままだった白石は、この問い掛けにぽかんとほうけてから、すぐさまむっと眉を寄せ、包帯の巻かれた右手で、痛くないチョップを謙也の脳天に食らわせた。「今までそんなん、いちいち聞かずにやってたやろが。アホ謙也」と、文句をこぼす彼の声は、けれどこのとき確かに、不安と安堵と慕情に揺れてかすれていたので、謙也はごめんと謝って、すぐにその凛と伸びた首筋に鼻先を埋め、抱きしめた。白石は、何も言わない。言わないけれど、鼓動は響く。まざりあって、とけて、ひとつじゃなくて、ふたつぶんになって。 いつも黙ってされるがままだった白石は、この日はじめて、そろそろと包帯の腕を伸ばし、謙也の背中をなだめるように、またすがるように、指先だけでかすかに抱いた。それが生き方を変えることのできない、せいいっぱいの彼の妥協だった。それでいて、ぎゅうぎゅうと、動物のように強く強く自分を抱きしめ続ける謙也に、「キスするんならはよしろや!」と彼がその手を叩くのは、もう少しだけあとの話、なんですけれどもね。
(fin)
あとがき
夏にカッとなって書きかけて止まっていたものの完成稿。謙也と白石が同じクラスで友達でいてくれる奇跡に、ときどき盗んだバイクで走り出したくなってなりません。白石は基本的に理解されることも認められることも褒められることも望んでないし、そういう自分が理解できないってんならお好きにどうぞって言えちゃう子だと思うのですが、四天の子たちはそういう部長さんが心配だと思うし、心配しなくても別に白石がやっていけちゃうのがわかってるからこそ、謙也なんかはいつもにがにがしていると思うのです。だけど別に白石は、そういう風にみんなが思ってくれること自体が邪魔なわけじゃないんだよね。口下手だからあんまりよく言えないけど。っていうお話が書きたかったんです、たぶん…(口下手はモチ子)お読みくださりありがとうございました!!
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