つい先程までは体中を滝のように伝っていた汗さえも、鼻の先にまで迫った業火の灼熱にさらわれて、いまやとうに流れを止めていた。視界を塞いで揺らめく炎の赤、いきものの焼けるにおい、髪を焦がす音。たったひとつの出入口を塞ぐように、本堂を支えていた樫の柱が燃え落ちて倒壊する。響き渡った恐ろしい轟音と強烈な衝撃に身を竦ませて、壁に背を預けていた少年はずるりとその場に腰を落とした。瓦礫に貫かれ、おびただしいほどの血を流している足は、既に感覚を失っている。寒くもないのにガチガチと戦慄く唇を噛み締めて、彼は拳を握り締めた。自分は、死ぬのだ。志半ばにして、呆気なく、こんな無様な姿で。
畜生。口の中で呻く。何度も、畜生と、ただそれだけを。気の遠くなるような熱に浮かされ、舌と咽喉がひりつき上手く声を発する事が出来ない。それでも、引き絞るような思いで、身を切るような思いで、少年は繰り返す。畜生、畜生。無様で、無力だった。自分はこんなにも。


(若、お前は世界を知らなければならない。心が驕っていては、見えるはずのものが見えず、幻ばかりを追う事になる。お前は、世界を知らなければならない――)


出立を少年に言い渡した、父の言葉が耳の奥で残響のように蘇る。父はさぞかし失望するだろう、こんなにも無様な息子の事を。きっと父は知っていたのだ、息子の驕り高さと不甲斐無さ、何より無力さを。だからこそ出立のあの日、父の背中はあんなにも冷たかったに違いない――


「……死んで、たまるか」


渇き切った唇の中で、少年は呻く。あの父の背中に、きっと追いついてみせるのだ。下克上。失望されたままで堪るものか。少年の身体は満身創痍で、既に意識も出血の多さから半分夢うつつをさまよっていたけれど、それでも、目の中に宿らせた意思の強さは揺るがなかった。それはぎらぎらとして、光にも似た純粋な力だ。生きる、力だ。
少年は震える手で、床に散らばる木片を握り、それを己の足を挟む瓦礫へ思い切り突き立てた。途端恐ろしい激痛が身体を突き抜け、忘れかけていた脂汗がどっと汗腺から吹き出すが、しかし少年は手を止めなかった。歯を食いしばりながら、梃子の原理で木片に体重をかけて、瓦礫を取り除こうとする。圧力に耐え切れず、木片が折れれば、彼はすぐにまた新しい木片を探し、再び瓦礫に突き立てた。諦めるわけにはいかなかった。諦めたくはなかった。己に負ける事だけは、許せない。絶対に、生きてやる。弱者のまま死んで堪るか!


どうにか瓦礫を浮かし、足を引き抜いて、少年はふらりと立ち上がった。既に四方が炎に覆われていたが、彼は諦めなかった。歩みを進めるたびに足の傷が疼き、幾度も彼は膝をついたが、それでも決して諦めなかった。真っ赤な血をしたたらせながらも立ち上がり、ずるり、ずるりと足を引き摺るようにしてまた歩く。痩せた少年の身体をねぶるように、本堂を荒れ狂う業火は勢いを増すのだけれども、彼は炎には目もくれず、ただ前だけを見据えて足を進めた。出入口を塞ぐ倒壊した柱の前まで辿り着くと、少年は柱が貫いた横の脆くなった木壁に、熱で溶けた銅のかたまりを持ち上げ、思う様叩き付ける。焼けた銅は少年のてのひらを焼き、打ち付けた反動で何度も自分自身が引っ繰り返りながらも、それでも彼は壁を打ち破ろうとする手を止めなかった。その壁こそが、己の弱さそのものであるとでも言うように。


















長い、長い時間の後、ついに壁が破れ、めりめりと音を立ててそこに穴が空いたとき、少年はとうとうその意識を手放し、倒れた。それしめたと言わんばかりに、伏して動かぬ痩せた幼い身体を覆うように灼熱の業火が襲い掛かり、黒く濁った煙が彼の呼吸を奪ってゆく。――しかし、異変がそこで起きた。無人だったはずの周囲に、しゃん、と、何処からか不意に鈴を打ち鳴らしたような、涼やかな音色が鳴り響いたのである。すると、どうだろう、それと同時に獰猛な獣のように本堂を荒れ狂っていた炎が、まるで時を止めたかのように、ぴたりとその猛威を収めたのだ!そうして今一度しゃん、と打ち鳴らされた鈴の音に吸い込まれてゆくように、小さな木造の本堂を嘗め尽くしていた猛火はたちまち勢いを失くし、仕舞いにはその姿を欠片と残すことなく、するりと掻き消えた。…ほんの、瞬く間の出来事。時を巻き戻したかのように、しんと辺りを静寂が埋め尽くす。炎の揺らめきはもう見えず、鈴の音ももう聞こえない。ただ焼け残った本堂の、真っ黒になったみすぼらしい骨組みが残っているだけ。







やがて、夜の闇から湧き出るように、黒衣を纏ったひとりの青年が現れた。右手に銀の錫杖を抱えた彼は、襟足を伸ばした紫暗の髪に、濃い藍色の瞳をしていた。けれど表情は、よく見ることができない。するりと尖った細面には似合わない、やや不恰好な丸眼鏡が、彼の表情を隠しがちにしていたからだった。けれどおそらくは、感情をそぎ落としてしまった、能面のような無表情をしている。整った顔立ちをしているだけに、あまりにその表情は痛々しく冷たく感じられた。
青年は、倒れ伏している少年を見下ろし、静かにその傍らに膝を付いた。月光に照らし出された少年の白い頬にはかたまった血がこびりつき、目元には焦げて煤をかぶった亜麻色の髪がはりついている。その上、彼の体のそこかしこは傷だらけで、纏った衣の所々が血に染まって黒ずんでいた。右腕の火傷と左足の裂傷はとみにひどく、すぐに手当てを施さなければ命に関わるだろう。けれど、その凄惨な様を裏切るように、かぼそい呼吸を繰り返す寝顔だけが、ひどく純粋であどけないのだ。少年は美しく、そして幼かった。



じっと、少年の寝顔を見下ろしていた青年の無表情が、不意に歪んだ。ごくわずかではあったけれども、瞳が揺れて、悲しみが混じる。それは何に対する悲哀なのか、少年の痛々しさに、それとも過去に出会った「誰か」に向けて?こたえることなく、青年はそっとそのてのひらで、少年の頬にこびりついている血を拭い取り、やがて彼を背負って立ち上がった。少年のかすかな呼吸を慈しむように、一度目を閉じてその命を確かめてから、青年は静かに歩き出す。時折足を止めては、耳元をくすぐる幼い命の呼吸を感じながら、一歩ずつ、一歩ずつ。















――それが、乱世の倭国に生れ落ちた、日吉若と忍足侑士の出会いだった。