「ねえ、本当にいいの?」


問い掛けてくる声は遠慮がちだ。塀の上。輝く毛並みを微風に揺らし、幾度も幾度も後ろを振り返る銀色の狼は、姿こそ恐ろしく猛々しいが、纏う空気はどこか自信なさげだ。黙って毅然と背筋を伸ばしていれば、まだ犬神らしく見えるのに。中身が長太郎の時点で無理なのか?若はいらいらと腕を組み、既に何度目かもわからない幼馴染の犬神の問いかけを、「しつこいぞ」と低い声で一蹴した。木戸の影に身を潜め、体勢を低くして辺りを伺う。野菜売りに飛脚、水汲み女に塩売り、米売り。道を行き交う雑踏の中に、あの憎らしい黒衣の姿は見当たらない。若の口元に、してやったりといった人の悪い笑みが浮かんだ。これは、今度の今度こそ上手くいくに違いない。


「でもさ、俺たちが先に出ちゃったら、置いてけぼりになっちゃうじゃないか、あの人。ねえ、せめてちゃんと話を通してからの方がいいと思うんだけど…」
「構うことないだろ、元々はあっちが勝手について来てるんだ。こっちが頼んで来てもらってるわけでもなし、離れればその時点で茶番も終わりに出来る」
「で、でもさあ…」
「いい加減グダグダうるせえぞ、長太郎。いいからさっさと鼻を利かせろよ。あいつの匂い、しないだろうな?」


若の取り付く島もない態度にやっと諦めたのか、長太郎は首を竦めて、二・三鼻を動かした。犬神は鼻が利くのだ。銀の毛並みの美しい狼は、やがてかすかに首を横に振る。


「いないみたい。感じないよ」
「よし。いいか、あそこの荷車が通り過ぎた頃が頃合だ。一気に走って里を抜ける。里を出て森に入っちまえばこっちのものだ。お前、姿戻すの忘れるなよ」
「忘れないよ!いくらなんでも」


軽口を応酬しながら身を潜める一人と一匹の前の通りを、牛が引く合図がわりの荷車がのろりと通り過ぎた。今だ!
すぐさま木戸を抜けて走り出した若に一歩遅れ、人の姿に擬態した長太郎が塀から飛び出す。行商人で賑わう市の雑踏が、突如風のように現れて走り出した二人組の少年を避けてぐにゃりと割れた。が、こちらはこれでもれっきとした武術家と犬神だ、誰かにぶつかるなんてへまはしない。人ごみを突風のようにすり抜けて、二人は一目散に市の中を疾駆する。ここさえ抜けてしまえば、里の出口まではあと僅かだ。勝った!と、若はひそかに衣の影でガッツポーズを浮かべかけた。――のだが。



「ちょっとそこ行くお二人さん、そないに急いでどこ行かれますのん?」



不意に横手から掛けられた男の声に、若と長太郎は思い切り急ブレーキをかけざるを得なかった。正しくは、脱力して勢いを殺がれたのだ。西の方言交じりの低い声。こんな胡散臭い喋り方するの、あの男くらいしか若は知らない。知りたくもない。背後で長太郎が、あちゃあ、と苦笑した。
見れば市の横、小さな出店茶屋の軒先に腰掛けて、悠々と茶をしばく若い僧侶がひとり。黒い髪に黒い装束、眼鏡、長い錫杖。ちゃっかり両脇に女を侍らして、彼はひらひら親しげにこちらへ手を振って見せる。若は口元を引き攣らせて、落胆を隠しもせずに思うさまため息をついた。ああ、またも、脱出失敗。


「あらぁ、あれが待ち合わせ中だった法師さんの弟さん?似ていらっしゃらないのねェ」
「でもどっちにせよみぃんな粒ぞろいの兄弟!素敵だわ。ね、弟くんたちも寄って行かれない?」


僧侶の青年に寄り添う、派手な着物の女たちがころころと笑ってこちらに手招きする。思わず身を固くした若と長太郎をよそに、青年がいやはや、と首を振って女の手を下げさせた。白い指。あの女たちの白粉の香りが、彼本人の匂いを長太郎の嗅覚から逸らしたのだろう。ヤツはきっと、わかってて彼女たちを引っ掛けたに違いない。


「折角のお誘いやけど、弟はあれで人見知りが激しゅうてかなわんのや。またの機会にしたってや。俺もそろそろおあいそするし」
「ええ、そうなのォ?」
「残念だわ。ねえ、またこの里に来ることあったらウチに寄ってくださるわよね?」
「はは。考えとくわ」


ご馳走さん、と銅貨を数枚卓に置き、青年が立ち上がる。名残惜しげに手を振ってくる女たちに愛想よく笑いかけて、彼はさも当然といった様子で、げんなりと立ち尽くす若のもとに歩み寄った。浮かんでいるのは人を食ったような、あの飄々とした笑顔だ。


「さ、鬼ごっこ13戦13敗めの“弟くん”、待ち呆けたわ。お次の目的地はどちらまで?」
恭しく尋ねかけてくる、このいやみったらしい青年の名前は忍足侑士。ひょんな事から若の旅の同行者となった、目下鬼ごっこ連勝中のよろず屋である。

















「いやー、焦ったわ。起きたら日吉も鳳も部屋におらへんのやもん。今回ばっかりは間に合わんかと思ったで」
「どの口でそれを言いますかアンタは!余裕綽々で先回りしていた癖に」
「いやあ、でも流石に13回も攻防戦があると、日吉も鳳も着実に逃げ方学習してるみたいやし。次あたりは危ないかも?」


へらりと笑った忍足を横目でぎろりと睨み上げて、若は不機嫌に唇を尖らせた。不測の事態で知り合ってから半月余り、忍足は依然「くせもの」以外の何者でもない。口八丁手八丁で強引に若の旅の道連れとなった彼は、気まぐれに若をからかったり、話しかけては反応を引き出して遊ぶ、全くもって質の悪い人間だった。良くも悪くも真っ直ぐで、ひねていない若のリアクションが、忍足にとっては新鮮なのだと言う。今までの旅では、寡黙な若に対して長太郎が多く口を開き、とりとめもないことを話すのが普通だったのだが、忍足が現れてからは、そんな構図も変わった。忍足は、よく話題が尽きないなと言わんばかりに多方面に博識で、あらゆるものに(若からすれば無駄だと思えることにも!)造詣が深い。彼は旅路の合間、実にいろいろなものを若と長太郎に一方的に話して聞かせた。天気の話、学問の話、諸国に溢れた珍しいものの話、時には潔癖な若と長太郎を赤面させ、怒らせるくらいの猥談まで――彼の話術は巧みだった。静寂を愛する若にしてみれば、うっとうしい割合の方が圧倒的に高かったが。

けれど戦闘に関して――強くなりたいと発した、若の修行に関して――は、最初に誓ったとおり、忍足は深くこちらに関わろうとせず、同行者というよりは、単なる傍観者といった風情で接してくるのが基本だった。たとえば若が退魔の依頼を受ければ、何も言わず忍足も共に現場に付き添う。けれど絶対に手は出さない。ただ依頼を終えた後に、客観的な戦術の話を二・三、話して聞かせるだけだ。(本来はそれさえ鬱陶しいのだが、しかしそれらの指摘が嫌味なほどに的を射ているため、若は仕方なく目を瞑っている。)旅に関しても、忍足は若らにとって“干渉”となるライン、そうでないラインを、巧みに見極めているフシがあった。彼は若らと宿を同じくしても、絶対に若らの同室には上がり込まず、当たり前のように別の部屋を取る。だのに朝になればごく自然に、呼びに行くまでもなく宿の前で既に出発の準備を済ませていたりするので、やはり忍足という人間は計り知れない。目覚めるたび、その周到さが腑に落ちずに複雑な顔をする若のことを、当の忍足はいつも愉快そうに笑って見つめた。

それでも、忍足の同行は、はいそうですかと落ち着いて受け入れられるものでもない。裏を持たずに好んで他者の旅に同行する、なんてこと、あるわけがないからだ。このご時勢だ、言葉巧みに近寄ってくる追い剥ぎや人買いは数知れない。忍足本人は「日吉に惚れ込んだから」とその一点張りだが、とても信じられたものではなかった。ていうか、信じたくもない。寒すぎる。何より純粋な好意で近寄ってきたにしては、忍足本人が胡散臭すぎたし、若自身、忍足という人間のあの飄々とした態度や余裕の笑顔、皮肉げな口調が、どうしても苦手だった。

だから若は長太郎を誘い込み、今までに12回、そして今日で13回目の「忍足逃亡」を企てた。しかしいずれも看破されて、結局なし崩しになっている。前章最後、「鬼ごっこもかくれんぼも得意なんや」と言い切った言葉は、どうやらダテじゃなかったらしい。お人よしの長太郎などは、もう逃亡が3回を過ぎて失敗した辺りからどうでもよくなったらしく、最近に至っては、常に目新しい話を発信してくれる忍足に、懐いてきてさえいるようだった。あのバカ犬、誰にでもほいほい気を許しやがって!


「そんで、次はどっちに向かうん?」
「ええと、西ですね。この森を抜けて、加茂の方へ。忍足さんは、行ったことあります?」


長太郎の無邪気な問い掛けに、忍足は苦笑して、さあ、どやったかなあとぼやく。ああ、まただ。若は唇を噛んだ。こういったところも若にとって、忍足の気に入らない要因のひとつだ。忍足は、自分たちに深く干渉しない代わりに、彼自身のこともはっきり語ろうとしない。関係のないことについては板に水を流すように次々に話して聞かせるのに、彼は自分の周囲に関しては、驚くほど口が重かった。天災も人災も珍しくない時代だ、何か触れられたくない事情があるんだよ、と長太郎などはゆったり構えているが、それにしても忍足の秘密主義は異常だ。彼について若が知っていることなんて、ほんの僅か。寺院の関係者であるらしいこと。魔のものに関するものだけに限らず、かなりの情報通であること。あとは――そう、以前出雲に暮らしたことがあるらしいこと。たったそれだけ。
















奇妙な旅が始まったばかりの頃、最終的な目的地は出雲であると答えたとき、忍足が珍しく、ポーカーフェイスを気取れずに驚いた表情を見せたことがあった。彼は次いで少し複雑そうな顔になり、最終的には仕方なさそうな苦い笑顔を浮かべた。


「なんで、そんなところに行きたいん」
「戦いの技術が、簡潔に学べる地だからです。各地から選りすぐりの退魔の技術者たちが集う、聖地なんだと聞きました」
「選りすぐり――ね。まあ、確かにつわもの揃いっちゃそうかもしれへんけど」
「忍足さん、行ったことあるんですか?」


長太郎の驚いたような問い掛けに、忍足は少し考えるようなそぶりを見せて、「うん、昔な。ちょっとだけ、暮らしてた事があってん」と呟いた。珍しく、ぼかさない直接的な解答が返ってきたので、ずいぶん印象に残ったものだ。けれど忍足がそのまま笑顔で「日吉は、出雲でどうしたいん」と重ねて問い掛けてきたので、若はすっかり苛立って、深くその事を問い詰めるのを放棄してしまった。「何度も言わせないでください。強くなりたいんです」と言い切った若に、けれど忍足はどこか苦い表情を崩さなかった。「あそこに行ったからて、強くなれるっちゅうわけやないと思うねんけどな」と、ちょっと困ったように笑うばかりで。



「な、日吉。そないに気張らんでも、強さってもんは自然に身に付くもんや。目先のもんにとらわれたり、力に溺れてもうたら、他のもんは何も目に入らんようになってまう。そのことだけは覚えてへんと、いつか自分を滅ぼすで」



忍足はそう言って、あとはそれきり、「はい、説教終了」と肩を竦めてまたなんでもない顔に戻ってしまった。けれど、その日の忍足の知ったような口ぶりと、どこか仕方なさそうな苦笑いが、とにかく気に障って腹立たしく、やはりどうしたってこの人を好きにはなれないと、若は苦々しく唇を噛んだことを覚えている。
この日だけじゃない、忍足が自分を見下ろすときの、しょうがない、聞き分けのない小さな子供を見るような目が、若は大嫌いだった。里の大人たちや同門の子供たちが、若を中傷する時のまなざしを思い出す。小さな頃から頭の回転が人一倍早く、媚びへつらいや愛想を嫌って常に己に正直に生きてきた若は、同年代の子供たちの中では浮いた存在で、大人たちからも煙たがられることが多かった。それ自体をつらいと思ったことはないし、自分自身を悔いたこともない。ただ軽蔑するばかりだった。文句があるのなら、強くなればいい。それだけのことじゃないか。強さこそが里での力の優劣を決めるなら、そこには情の入り込む隙もない。だからこそ、若は寸暇を惜しんで修行に励んだのだ。強くなればいいのだ。強くなり、多くの魔のものを屠りさえすれば。
だのに、総領は――父は、そんな若を認めてはくれない。それどころか帰る家の門戸を閉ざし、どんな誹謗を受けたときより、どんな中傷を受けたときより、深く悲しい屈辱を若に与え、刻み込んだ。だから自分は絶対に、絶対に絶対に絶対に強くならなきゃいけないのだ。この旅を終え、長太郎と共に、胸を張って帰郷して見せる。そのためには今よりもっと、もっと、明らかな強さを!




















ふと、森を進む一行の間を、風向きの変わった微風が駆け抜けた。瞬間、長太郎の表情が厳しくなる。たちまち彼の周囲を風が包み、次に振り返った時にはその姿は銀の狼となる。犬神の本質だ。グルルルルル、と獣の声で喉を唸らせた長太郎は、身を低くして臨戦態勢を取った。長太郎は鼻が利くのだ。旅の仲間の誰より魔の気配に敏感な彼が、その身を本質に戻す時、すなわちそれは魔の襲来である。応じて若も腰のローチンを抜いた。忍足だけが余裕の表情でその場に屈みこみ、のんびりとした動作で木の根元を検分する。「爪あとや」低く呟いた忍足の目は、しかしやはりどこか余裕めいていた。「土を抉る前足に、独特な1対の爪跡――こいつは、大蜘蛛やな。身の丈は、鳳の変化した時くらい、あるんとちゃうか」


その言葉が言い終わるか終わらないかの内に、忍足の真横の木から、突如毒々しい赤の色をした大蜘蛛が姿を現した!忍足の検分通り、恐ろしく身の丈が大きい。成虫の土蜘蛛だ。そのまま蜘蛛が長い前足で忍足の身体を掻き切ろうとしたのを、当の忍足は目線もくれずにヒョイと身を逸らして避けてしまった。地面に落ち立った蜘蛛は、続いて血に飢えた真っ赤な瞳で、臨戦態勢の若を睨み付ける。そのまま、若の喉笛に向かって前足を振り上げる。
しかしその前に、長太郎が動いた。流れる狼の動きで跳んだ長太郎の牙が、蜘蛛の身体と脚を接続する外骨格に突き立てられる。金切り声のような悲鳴を上げた蜘蛛の前脚を、隙をついた若の小槍が2本切り捨てた。ゴトリ、と嫌な音を立てて、1対の爪の付いた脚がばらばらに転がる。
もだえて反り返った蜘蛛の身に、続いて長太郎の援護射撃が入る。長太郎は神としてのその神通力を光球状に具現化し、尾から放つことが出来るのだ。風を切る、凄まじい勢いで放たれたそれを5発、6発と食らって、蜘蛛はもんどり打って仰向けに倒れこんだ。そのまま脚のひとつを食い千切った長太郎の横から、負けていられないと若も2本の脚を薙ぎ伏せる。そしてその勢いで、若は上から蜘蛛の腹を突き破った。金属を擦り合わせたような魔の苦悶。蜘蛛はビクビクと震え、やがて動かなくなる。


「……終わったな」


血で染まった槍を二・三、空で振りぬいて、若は息をついた。土蜘蛛は大きいが、単体ならば大した相手ではない。動きが大振りで反応が鈍いので、隙をつきやすいのだ。危機を遠ざけたことで本質の姿からヒトへ変化し、人好きのする笑顔でこちらを見やった長太郎に、若もふと、肩の力を抜いた。
しかし、「まだや!!!」真横から忍足の鋭い叱責が飛び、二人は愕然と目を瞠った。「何ボサッとしてんねん!!」



若が驚いて顔を上げたのと、引っ繰り返ったままの大蜘蛛の、残る3本の脚が蠢いて若を引き倒したのはほぼ同時だった。「若!!」長太郎の名を呼ぶ声に、返事をする間もなく、地面に打ち倒された若の腹の上を、脚のひとつが押さえ込むようにめり込んでくる。呼吸を阻まれて顔を顰めた若は、脚を退けようと両手に力を込めるが、頑強な蜘蛛の脚はびくともしない。衝撃で吹っ飛ばされてしまっていたローチンを探すが、目の届く範囲には見えなかった。舌打ちする。蜘蛛は、魔のものの中でも生命力の高い部類に入るのだ。8本の脚をすべて落とすまでは、決して気を抜いてはならないと父に教えられていたのに――!

若を押さえ込む脚の他、残った3本の脚を支柱にして大蜘蛛が起き上がった。毒で光る鎌状の鋏角が、咆哮を上げた蜘蛛の口元に見える。あれに噛み突かれたら終わりだ。土蜘蛛の毒は、退魔の日吉一族が小妖怪の始末に使う即効性の猛毒であることを、若は知っていた。再び本質の姿に戻った長太郎が飛び掛るが、同じく残る脚に引き倒され、上手く攻撃に転じる事が出来ないでいる。残る蜘蛛の最後の脚が、暴れる若の両足を押さえ込んだ。無事なのは両手だけ。武器は、ローチンを失った今、右手に仕込んだ小さなナイフだけだ。


(狙うのは一瞬だ)


蜘蛛が若の身体に鋏角を突きたてようと、身を近づけたその瞬間。急所である頭頂の一部を狙うしかない。右手を握り、眉間に力を入れて、若はその好機を待った。蜘蛛が大きく胴を引きずり、捕らえた若に近付いてくる。もう少し。もう少し。そうだ、そのまま――

(今だ!!!)




















しかし、待っていた瞬間は訪れなかった。きん、と鈴を鳴らすような音が響き渡ったと同時、突如にして、若を狙い定めていた蜘蛛の頭が、真っ二つに弾け落ちたからだ。本当に、一瞬。瞬きの間に、蜘蛛の頭はごろりと地に落ちていた。忘れたように血の飛沫が上がり、呆然とする若の頬を濡らしていく。
頭を失い、今度こそ轟音を立てて地面に倒れ伏した蜘蛛の影から現れたのは、驚くべきことに、ごく平然とした顔をした忍足だった。錫杖が血に染まっている事、眼鏡の端が僅かに赤く濡れていた事を除けば、彼は至って常のままの忍足だ。口元に浮かんだ皮肉げな、あの余裕に満ちた微笑まで、そのまま。



なにが、起こった?まるで光の筋が走ったように、まっぷたつになった蜘蛛の頭。今のは、忍足がやったのか?この、いつもへらへらと笑っているだけの男が?あんな―――あんな、錫杖の一閃で。ただの銅の錫杖で、そんな真似出来るわけがない。まるで鋭利な刃物の成せる技じゃないか。僧籍に在するものが出来るのは、せいぜい仏に仕えるための法力をもとに、魔を鎮める、結界を作る、小さな妖怪を滅す。その程度だと思っていたし、実際大多数の僧侶たちはただそれだけの力しか持たないはずだ。なのに、忍足は違う。こんなにも攻撃性に満ちた、仏のためでも何でもない、力を、一体彼は、何のために―――















「怪我は?」


物思いに耽っていた若を思考の淵から引き戻したのは、忍足のその言葉だった。問い掛けられ、思わず従順に首を横に振った若は、しかし次の瞬間はっと我に返る。尋ねたい事や詰問したい事は幾らでもあったはずだが、我に返った若が最初に思い出した感情は、他の何者でもない――純粋なる怒りだった。



「手を出すなと、言ったはずです」



開口一番、低い声で唸るようにそう言った若に、手を出しかけていた忍足は唖然と口を開けた。てっきり、今の技はなんだ、お前は一体何者なんだ――そういった事を聞かれるとばかり思っていたのかもしれない。(実際忍足はそのつもりでいたし、その際どのように何を聞かれようとも、笑って受け流す心積もりでいた。)けれど今の若に先立つものは、自分が強くなるための修行の旅を、第三者に阻まれたという憤りばかりだった。あんな土蜘蛛くらい、自分ひとりで始末が出来たのだ。それを、勝手に俺を弱者と判断して、手を出した。俺ひとりで倒せたのに。強くなれる筈だったのに。


「あんな相手くらい、俺ひとりで倒せました。アンタに手を出されるほどでもなかった。最初に言いましたよね、俺の修行を邪魔するなって。俺は強くならなきゃいけないんです。そのために、この旅で得られるものは何一つとして潰されたり、邪魔されたくはないんです。二度とこんな余計な真似しないでください」


泣きそうになりながら駆け寄ってきた長太郎は、若のこの言い分に飛び上がった。「なんてこと言うの、若!忍足さんは若を助けてくれたんじゃないか!」
けれど、羞恥と屈辱の感情で染まり切った若に、この言葉は届かなかった。脳裏に、先程フラッシュバックしたばかりの、里の大人たちの顔が浮かぶ。誹謗と中傷で若を拒み、認めなかった者たち。確かな強さを手に入れ始めていたはずなのに、決して振り向いてはくれない父や兄の姿。もっともっと強くならなければ、永遠にあそこには帰れない。強くならなければ、強くならなければ、強くならなければ。


「俺は助けてくれなんて頼んだ覚えもないし、手を出されるまでもなく一人でやれたんだ。どいつもこいつも俺をなめやがって。俺は一刻も早く強くならなきゃいけないのに、邪魔ばかり」
「そんなこと、」
「っ、お前もだ、長太郎。今のはお前の援護なしで十分にやれた。お前はいつも真っ先に飛び出してくるばっかりだ。俺を馬鹿にするにも大概にしろ!」


若の言葉に、長太郎の顔がさっと青ざめた。そのときになってやっと、若は自分の頭に血が上り、理性を飛ばしている状態であることを省みた。長太郎はただ、自分を助けようと、手伝おうとそれだけを思って、力を貸してくれていただけだ。本当は争う事だって好きではないはずなのに、若のためにいつも、彼は率先して爪と牙を持つ本質の姿へ戻るのだ。けれど、僅かに冷静になった今も、湧き上がった衝動ははけ口を探して若の中で暴れ狂う。手触りの悪い、沈黙。唇を噛んで俯いた若の心を打開したのは、今まで黙り込んで言葉をぶつけられるままになっていた、忍足だった。

墨染の衣で覆われた腕が持ち上がる。黒の手甲で覆われた忍足のてのひらが、ぱちりと軽く、日吉の頬を叩いた。本当に、虫も殺せないような弱さだったけれど、けれどその力は脳髄にまで届く不思議な力だった。


「日吉にとって、強さって何なん?」


忍足は静かに問い掛けた。本当に静かな声だった。











「今のままじゃお前は、本当の意味で強くなることは出来へんよ」











頬を押さえ、その言葉に瞠目した若の横を、忍足は錫杖を鳴らしながらすり抜けていく。忍足が足を進めるたびに、鈴の鳴るような小さな音。反論したい、けれど何も言葉が出ずに、若はただ、そこに佇むことしか出来なかった。頭の中で、何度も忍足の声がリフレインする。ふと泣きたいような気になって、けれど涙も出ずに、若は俯いた。そのままずっと、日が暮れるまで、若はそこに佇んでいた。