君よ、笑え彼と出会ったのは、わたしの大好きな「あの人」がいなくなって33日が経った、寒い、それは寒い、冬の三日月が美しい真っ白な夜のことでした。空からハラリ、ヒラリ落ちる雪の花はとても綺麗で、けれど冷たく、それらは彼の肩や頭、存在を覆い隠すように、その日の朝からしんしんと降り続いていました。 彼はわたしと出会ったその時まさに、雪の夜に冷えた肩を抱くように、工事中の地下鉄、地上階段出口3番のところに、小さくなって座り込んでおりました。彼の頭がもとより雪のように白いことを知らなかった私は、その星のように輝く銀の髪を見て、彼が近くこの雪に覆い尽くされ、凍りついて死んでしまうのではないかと、ゆきずりの身ながら、ひどく恐ろしく感じました。だから、せめて彼をこの雪から守れたならと、小さな子供用の赤い傘を、彼の頭にさしかけたのです。彼はノロノロと顔を上げ、猫のように細めた瞳で、わたしの顔を見上げました。鋭いまなじり、通った鼻すじ。顔色はやはり、雪のように真っ白で、口許にひとつ、しみのようなほくろがあるのが印象的な人でした。 傘を差し出しておきながら、何と口を開けばわからず黙り込んでいたわたしを、彼はしばらく驚いたように見つめていましたが、それからにわかに笑い、「こんばんは、お嬢ちゃん」と囁きかけてくれました。低く掠れた彼の声は、わたしの知る大人の男の人達が誰ひとりとして持たないトーンだったので、ひどくドキドキしたことを覚えています。彼は父とも先生とも、まして―――「あの人」とも違う。 コンバンハ。あいさつの返事には、消えそうな声が出ました。33日前、「あの人」を失ってから、わたしは上手く声が出せないのです。情けない顔をしたわたしに、しかし彼はフ、と歯を見せて笑ってくれました。そして、ありがと、と言って、差し掛けた私の傘を、下ろすようにジェスチャーをしました。でも、この傘をどければ彼が今にも死んでしまうような印象を覚えていたわたしは、首を振ってそれを拒みました。何故そんな強情を張ることが出来たのか、今考えても不思議です。彼は譲る様子を見せない私に肩を竦めると、隣に座るよう、目でひとつ、合図をしました。 わたしは少し迷いましたが、やがて覚悟を決め、彼の横に腰を下ろしました。座り込んだわたしたちの目の前に、工事中の地下階段が、ぽっかりと闇の口を開けて伸びていたのを覚えています。 「お嬢ちゃん、名前は」 「……サヨコです」 「字は何て書くん?」 「小さい、夜。子供のコ」 「ふうん。綺麗な名前じゃ」 「おにいさんは、何てお名前ですか?」 「俺は、」 彼は、一度ためらうように瞬いてから、マサハル、と名乗りました。聞いたことのない、不思議な方言まじりで話す彼は、塾の帰り道だったわたしとは違い、ずいぶん長いことそこに座り込んでいたのでしょう。すっかり血の気の失せた白い指を見れば、それがひとめでわかったので、わたしはますます強く彼の頭上に傘を傾けました。彼は苦笑しましたが、それを静かに受け入れてくれていました。 「小夜ちゃんは、寒くないん」 「少しだけ。でもマフラーをしていますから」 彼は、わたしの小さな小さな声にも、まるで頓着せずに、辛抱強く話をしようとしてくれました。嬉しくなったわたしが、ほら、と甘いピンクのマフラーを指差してみせると、彼は何故だか懐かしむようにそれを見て、あったかそうやね、と笑いました。対する彼こそ、わたしに比べてひどく薄着であったので、寒くないのですかと尋ね返すと、彼は肩を竦め、その問いには答えませんでした。ごまかすように笑う彼の仕草は、去年母さんに連れて行ってもらったサーカスで、幕間におどけるピエロに似ているような気がしました。進んで笑い者になりながらも、目の下には涙のペイントを張り付けた、魔法のような、あの。 「マサハルさんは、何歳?」 「さあ、何歳に見える?」 「わからないけど…でも、わたしよりは年上で、でもだからっておじさんじゃないわ」 「ハハ。まあなあ」 彼とわたしは、しばらくそんなとりとめのない話を、思いついただけ話しました。彼は自分のことをあまり話しませんでした。聞いても、ほとんどまともに答えてくれることはありません。ただ、その中でたった一度だけ、きちんとした返事をよこしてくれたことがありました。ここで何をしているの?そう尋ねたわたしに、彼はしばらく黙ったあと、「人を待っとる」と薄く微笑んだのです。 「待ち合わせも、しとらんのやけどな。俺はもうずいぶん長いこと、そいつが来てくれんのをここで待っとう」 軽い口調でそう言った彼のまなざしは、しかし本当に笑ってはいませんでした。雪の冷たさに似た、さえざえと凍り付いた瞳。わたしは静かに悟りました。この人は、二度と戻らない人を、待っている。 じっとその目を見上げるわたしに気付いたのか、取り繕うようにわたしの手を握り、寒い?と再び問い掛けてきた掠れ気味の彼の声は、震えていました。とても、寒そうでした。彼こそが、寒そうでした。待っても戻らない時間を待ち続けるのは、くるしいことです。あの時、おそらく彼の心が抱えていた、凍え死んでしまいそうな冷たさ。ちっぽけで薄っぺらいこの手のぬくもりが、あの日の彼を少しでもあたためることが出来たのか、今でもわたしにはわかりません。あの日のわたしに出来たのは、ただひとつ、その真っ白な手を握り返し、黙って彼に頷いて見せることだけでした。とにもかくにもそうやって、わたしと彼は出会ったのです。 それからというもの、彼はいつでもそこにいました。わたしが塾の講習を終え、あの工事中の地下鉄、地上階段3番出口のそばを通る時にはいつも、彼はネコのようなまなざしを細め、薄く笑って、当たり前のようにそこに座り込んでいました。時々ポケットから小銭を出して、缶コーヒーをごちそうしてくれることもあります。けれどほとんどの場合はいつも、ふたりで真っ暗な階段の奥に向かい合いながら、ぽつりぽつりと短い言葉を交わすばかりでした。他に何をするわけでもない、ふたりぼっちの冬の夜。けれどわたしはそれでいいと思っていたし、彼もそれでいいと考えていることを、わたしは不思議と知っていました。本当に、不思議ね、サヨコ!彼についてわたしが知っていることなんて、相も変わらずマサハルという名前だけ。彼の、銀の、雪に似た髪と、さびしそうな切れ長の瞳だけ。だけどわたしはそんな彼と過ごす時間がたまらなく大切で、いとしかった。彼が心の奥深く、こごえるほどに待っている誰かも、こんな風にこの人をいとしく思っていたのでしょうか? 「小夜ちゃんは、笑わんのね」 彼と出会った雪の夜から10の太陽を数えたころ、いつものように階段にすわりこんだわたしを見つめ、彼はそう言いました。何と答えたらいいのかわからず、黙り込んでいると、彼は苦笑して、「せっかくかわいい顔しとるのに、笑わんのはもったいなか」と歌うように付け足しました。俯いたわたしの頭の中に、彼と会うときばかりは不思議と忘れていられた、33日前に死んだだいすきなあの人の声がよみがえったのは、必然でした。笑って、と。あの人もわたしに、よくよくそうささやいていたからだと思います。呪文のように。写真を撮るとき、手をつなぐとき、眠りに落ちるとき、あの人はいつだって、わたしの目を覗き込みながらそうほほえんでいたから。 不意に、わたしたちの背にする大きな車道で、車線をはみだした乗用車があわてたように鳴らした、ブレーキの音が響きわたりました。ぎくりと体を揺らして振り返ったわたしの頭の中で、なにかが真っ赤に光って点滅を始めます。 よみがえってくる景色。アスファルトいっぱいに広がった赤いもの。近付いてくるサイレン。泣き叫びながらすがりつくわたしのことを、抱き返してはくれない手。ああ、どうして今この瞬間まで、わたしは忘れていられたんだろう!笑って。笑って。息だけになった声で、最期の瞬間さえもそうささやいていた、わたしの大好きなあの人は、今はもう、どこにもいないということを。わたしのせいで、永遠に会えなくなってしまったということを。 過去と未来。夢と現実に責められて、にわかに震えだしたわたしに気付いたのか、彼はネコのような笑顔を消し去って、骨っぽく長い腕で、わたしの体を横から抱き締めてくれました。彼がそのときのわたしに何を感じてそうしたのか、それは今になってもわかりません。確かなことはただひとつ、わたしも彼も、永遠に戻らないとわかっているひとを待っているのだ、ということ。彼は、わたしの震えがおさまるまで、辛抱強くわたしの体を抱いていてくれました。あるいは、震えるわたしを抱くことで、彼もまた平静を保とうとしていたのかもしれません。出会って間もない、共有する記憶は10日分の夜の暗闇でしかない、そんなわたしたちだったけれども、お互いが抱えている、よく似たひとりぼっちの冷たさを、わたしたちはよく理解していました。 その日、別れのあいさつを交わして去っていく彼の背中に、わたしはふと、今まで感じたこともないようなデジャビュを覚え、立ち尽くしました。いつもはわたしが先に家路につくのを、彼が見送ってくれるばかりだったから、知らなかった。彼の猫背がちな、骨の浮いた背中を、クセのある歩き方を、どこか街から切り離されたような存在感を、どこかで見たことがあるような気がしたのです。 星のような銀の髪が揺れる、彼の背中が見えなくなるまで、わたしは工事中の地下鉄、地上階段3番出口の前に、ずっと佇んでいました。夜が深まり、やがて空が白んで星たちがその姿を隠すのと同じように、その背中を「本当に」最初に見た瞬間を思い出したそのときが、彼とわたしの最後の時間になるのだろうということを、予感のように感じながら。 次の日は、日曜日でした。家の中には会話がありませんでした。33日前、あの人がいなくなってしまってから、父も母も、わたしも、世界が閉じてしまったような気持ちで暮らしていたからです。朝になるたび、あの人の二度と座ることのない椅子を見るのが苦しくて、逃げたくて、けれどどんなに待ってもあの人が帰らないことも知っているから、わたしたちはこの家で生きていくしかありません。あの人が生まれ、育ち、笑い、笑ってとわたしに囁きかけた、この家で。わたし自身は昨日の夜からずっと、記憶の背中をたぐりよせることに、心のすべてを注いでいました。あるいはとっくにわかり始めていたことを、懸命に先送りにしていただけかもしれません。ソファに腰かけ、床をにらみながら、わたしはその瞬間も、じっと時計の秒針に耳をすませていました。 ふいに、チャイムが鳴りました。33日前から、日曜日の朝にこの家を訪れる人は決まっています。母さんが立ち上がり、インターフォンに出ることもなくその扉を開けました。立っていたのは、静かだけれど強いまなざしをした、6人の男の人たちでした。 「いつもいつも、お騒がせをして、申し訳ないです」 落ち着いた様子で母さんに頭を下げるのは、いつもこの、ゆるくたなびく青い髪を持つ青年でした。「焼香をさせてください」と口火を切った彼らを、母さんは静かに笑って仏間へ通しました。それから、6人がひとりひとり、仏壇に手を合わせ、お線香に火をつけて、心の片づけをするようにじっとあの人の写真を見つめ、離れていくまでの時間を、わたしは部屋の隅っこで、ひざを抱えて見守っていました。33日前にあの人が死んでから、お葬式の日を入れて、彼らがこの家へやってきたのは5回目です。いつもなら、インターフォンが鳴った瞬間に部屋へ逃げ込んでいたわたしでしたけれど、今日は、今日だけは、確かめなければならないことがある。わたしはひとりくちびるを噛んで、その瞬間を待ちました。 くしゃくしゃの、真っ黒の髪をした、6人の最後のひとりが仏壇から離れた瞬間に、ついにわたしは立ち上がり、彼らに近寄りました。今まで人形のように動かずにいたわたしの突然の行動に、虚をつかれたのでしょう。驚いたように顔を上げる彼らの中、わたしは、わたしの質問に答えてくれさえするなら、その中の誰を選んだってよかった。声もなく、急に視界に飛び込んできたわたしに、6人の中でただひとり、少しも驚く様子を見せなかったあの青い髪の青年が、うっすらと微笑みかけました。「妹さんだね」、と、彼は呟きました。「お兄さんから――柳生から、話を時々聞いていたよ」 「サヨコちゃん、だったかな。俺たちに何か、聞きたいことがあるの?」 「………写真を」 見せてほしいんです。わたしの唐突な言葉に、けれどその人はまったく動じた様子を見せませんでした。ユキムラ、と、おそらくはその人の名前を呼びかけた、黒い帽子の大きな男に、彼は右手をあげて返事をするだけにとどめ、もう一度わたしを見ました。 「写真っていうのは、どんな写真?」 「………お兄ちゃんが、みなさんと。テニスをしていた時の写真を」 うちには1枚も、ないんです。わたしが俯くと、ユキムラさんは微笑んで、わずかに後ろを振り返りました。その脇から、赤い髪をした小柄な男の人があらわれ、わたしの横にかがみこんだのはすぐでした。甘い青リンゴの香りがただよってくる、その人の手の中には、真っ赤な携帯電話が握られていました。 「写メでよかったら、ちょっと残ってる」 青リンゴの香りに導かれるように、携帯電話の中からフォルダが呼び出され、はにかむような笑顔で写っている、「あの人」―――兄の写真が映し出されました。時々この家の物干し竿で揺れていた、黄色くまぶしいジャージに身を纏っています。その横で、はじけるような表情で笑っている、6人の人たち。彼らが兄と一緒にテニスに精魂を投じ、夏に向かって駆け抜けていったことを、わたしは他でもない兄から聞いて、よく知っていました。 唇をかんでそれらを凝視するわたしの目に、ああ、とうとう、あの星のような銀の、彼の髪が映りこみました。正面からではありません。たぶん、彼は写るつもりで写ったんじゃないでしょう。兄にふざけかかるように、肩にまわされた、骨ばった腕。フレームのむこうに半分消えかけている、けれど、ああ、わたしには見せたこともないようなその笑顔!しあわせだと、その瞬間がしあわせだと、確かに告げている彼のその表情を、奪ったのは、きっとわたし。彼に、永遠にかなわない待ち人をさせることになってしまったのは、わたしのせい。だって、兄は――柳生比呂士は、33日前にわたしをかばって、死んでしまったのだから。 「そいつ、仁王ってんだ。ちょっと――今はここにいねえけどさ」 食い入るようにその写真を見つめるわたしに向かい、赤い髪の青年は、苦笑いをしながら言いました。その言葉に、わたしはにわかにすべてを思い出しました。仁王、仁王。その名前なら知っています。いやというほど、かつての兄の口から聞いた名前です。今日は、仁王くんと打ちに行ってまいります。仁王くんとダブルスを組むのです。仁王くんと、仁王くんと。ああ、そう笑って去っていった兄の背中は、いつもとても楽しげで、誇らしそうだった。どこか不思議な甘さに満ちて、じわりとわたしの胸を切なくさせた。写真の中で兄は、しあわせを全身で訴えるように笑っている彼の隣で、じっと、いとおしむような、いつくしむような、あたたかさのこもった瞳をして、彼を見つめていました。そう、わたしや母の前で仁王という人を語るときはいつも、あの人は、兄は、こんな優しいまなざしをしていました。 「こいつが、この仁王がさ。いちばん柳生と仲が良かったやつなんだ。なのに、ごめんな、いつも焼香にも来なくてさ。こいつさ、頭いいけど、バカだからさ。フラフラ逃げ回ってばっかりいるんだよ。何ていうか、こいつさ。まださ、まださ…」 話しながら声をつまらせた赤い髪の青年の肩を、褐色の肌の、背の高い男の人が抱きました。その瞬間、わたしは沸きあがってきた時間の奔流に、あっという間に意識を持っていかれました。そう、あの日も、このひとたちはこうして、肩を寄せ合って泣いていた。告別式の日のことです。 兄は穏やかで、優しく、人を愛する人だったから、式にはたくさんの人が献花にやってきて、兄の存在の喪失に、こうして涙を流してくれました。兄の級友たちや、先生、彼らのような部活の仲間たち。誰もが肩を震わせて、現実の世界に悄然としていました。けれど、わたしは、涙も出なかった。失ったものが大きすぎて、ただただ途方に暮れていたのです。誰もが泣きじゃくりながら、いざ兄の白い頬に花をささげるときでさえ、わたしは人形のようにこおりついたまま、ずっと現実味なくその景色を眺めていました。兄がもういないだなんて、その顔がもうわたしに微笑みかけはしないだなんて、とても信じられたものではなく、まるで世界がぜんぶ、わたしを置いて回っているようでした。兄の喪失をとむらう準備は風のように過ぎていくのに、わたしは取り残されたまま、どこにもゆけない。だって、笑ってと、わたしにいつだって優しく微笑んでくれたあの人は、兄は、もうどこにもいないというのに! 凍りついたまま、白い花でうずめられてゆく兄の棺を見つめていたわたしは、やがてひとり、庭の外、垣根の向こうにぼんやりと佇んでいる、細長いひとかげを見つけました。告別式のこの日、霧のような雨に包まれている世界の中、その人はひとり黒い傘をさしかけて、静かに空を仰いでいました。傘の影に隠れていて、顔まではわかりません。けれど、焼香や献花にと家へ入ってくる様子もなく、ただじっと、世界のしくみを理解するための儀式のように空を見上げているその姿を見たとき、わたしはとっさに、このひとは同じだ、と思いました。このひとは同じだ。このひともわたしと同じように、世界に置いてけぼりにされている。わたしたちは迷子だ、と。 わたしの視線に気付いたからなのかはわかりません。でも、その人はふとまばたきすると、傘の下からぎょろりとした目でわたしを見ました。薄くつりあがったまなじりは、厳しい目つきをしていたのに、どこかひどく頼りなく、小さな子供のような目でもありました。その人のくちもとには、ああ、小さなしみのようなほくろがあり、わたしはしばらく、そのほくろと彼の矛盾に満ちた目を見比べて、じっとしていました。あらゆる音が消え、光が消え、世界はその瞬間、わたしと彼だけでぴったりと閉じていました。窓ガラスではばまれたわたしたちの空間には、しかし確かに互いの呼吸の音さえも響き渡っていました。わたしたちは、ひとりでした。ふたりだけど、ひとりで、ひとりだけど、ふたりでした。 やがて、何の言葉もかわさぬまま、くるりと背を翻して、その人は去っていきました。丸くゆがんだ背中、猫のような歩き方、雑踏の中にまぎれても、静かに浮かび上がるさびしげな、さびしげな、さびしげな存在。わたしの中で、パズルのピースがかちりと合った音がしました。ああ、デジャ・ビュの謎がとけたわね、サヨコ。とけてしまった。夢からさめてしまったのなら、待っているのは現実ばかり。雨はやまなければならない、太陽はのぼらなければならない、夢は終わらなければならない。そう、わたしは彼に、いつものあの場所で、工事中の地下鉄地上階段3番出口で、夢の終わりを告げなければなりません。だってそうしなければ、あの人の夜は終わらない。あの人の待っている愛しい人は、もう戻ることのない優しい兄は、わたしが、殺して、しまったのだから。 「ありがとう、ございました」 今にも闊達な笑い声が聞こえてきそうな、そんな鮮やかな顔で笑っている兄と彼の写真を静かに閉じ、携帯電話を返すと、赤い髪の青年は、苦労しながらもかすかに微笑んで、それを受け取ってくれました。ああ、この人は、ちゃんと笑っている。笑うことが出来る。強いひとだ、と思いました。強くて、優しい人たち。わたしはこの人たちから、父から、母から、友人たちから――そして彼から、あのあたたかい人を奪ってしまった。そのための裁きを受ける時が、とうとうやってきたのです。雪のように真っ白な髪の、あの寂しいまなざしの人に。 「こんばんは、小夜ちゃん」 はたして、この日も彼はここにいました。今年に入って2度目の雪が降る夜の中、工事中の地下鉄、地上階段3番出口の目の前に。返事をすることも出来ず、立ち尽くしているわたしに、彼は少しだけ苦笑したようで、やがてジーンズのポケットから、シルバーメッキの携帯電話を取り出すと、わたしのほうへ掲げて見せました。 「聞いたんじゃろ、全部。幸村からメールが来た。ええ加減、お前さんを解放してやれ、ってな」 わたしの脳裏に、あのゆるくたなびく、青い髪の青年の微笑がよぎりました。彼は一体、どこまで知っていたと言うのでしょう?傷のなめあいのようなこの夜のことさえ、あの人はあの澄んだ穏やかな瞳で、見通していたというのでしょうか。俯いたわたしに、彼は静かに息を落として、「俺な」、と、抑揚のない声で口火を切った。 「最初から、お前さんがあいつの妹だってのは、知っとった。知ってて、お前さんに近付いたんじゃ。マフラー見て、すぐわかったよ。あいつがお前さんの誕生日に、目ェ白黒させながら選んどったやつじゃけぇ」 彼の忍び笑いに、わたしは胸を衝かれて、首もとを見下ろしました。わたしの首に巻かれているピンクのネルのマフラーは、確かに兄が、あの人が、誕生日に選んで買ってくれたものです。出会ったばかりの頃、彼がわたしのマフラーを見て懐かしそうに目を細めたことを、わたしは歯を食いしばるようにして思い起こしていました。そんなわたしを細めた瞳で見つめながら、彼は一転して唸るような低い声で、「本当は」、と呻きました。 「本当はな。俺、お前さんを、ズタズタに傷付けてやろうと思っとったんじゃ。何の前触れものうて、呆気なく死んじまったあいつが、許せんかった。あいつが死んだのに、かばわれたお前さんがのうのうと生きてるんも、許せんかった。やから、ここで待っとったんじゃ。あいつが塾帰りのお前さんを迎えに、この通りを歩いていくんを知っとったから、ここで待っとればええ、思った。待っとる間ずっと、どうお前さんを苦しめてやろうか考えとったよ。考えは尽きんかったし、そうしとればいくらだって時間は過ぎた。それだけが、全部じゃった」 ぞっとするほど暗い瞳で、彼は淡々とそう言いました。わたしはじっと俯いたまま、震える手を押さえつけて、その言葉を聞いていました。混じりけのない純粋な悪意は、なんて恐ろしいのでしょう。けれど、わたしは彼の感じた苦しい思いをすべて、受け止めなければなりません。だって、彼の愛したあの人を、優しい穏やかな兄を、殺したのは、わたしなのだから。そして彼は、そのためだけにここにいる。 けれど、黙り込んでいたわたしに、彼がふと、静かな笑い声をこぼしたのはそれからすぐでした。驚いたわたしが顔を上げると、彼はとても、とても穏やかな顔で、けれどどこか泣き出す直前のようなまなざしで、じっとわたしを見つめていました。いえ、わたしではない。わたしではないどこか遠くの景色のむこうを、彼は見つめていました。わたしの頭に、あの赤い髪の青年が大切に持っていた、鮮やかに笑いあう兄と彼の写真が浮かびました。 「けど、出来んかった。お前さんが、俺に傘、さしかけてきよった時に、駄目じゃ、出来んって思った。お前さん、顔は全然あいつに似とらんのに、することみんな、あいつと同じじゃ。あいつも1年の頃の最初の冬、お前さんと全く同じこと、俺にしよった。それまで殆ど、まともに話した事もなかったんに」 その瞬間から、俺はあいつに降伏したのだ、と、彼は両手を掲げてそう言いました。驚きに目を瞠り、何か言わなければと唇を震わせるわたしにさえ、それは彼が、すべての報復を諦めた証でした。雪雲と闇に覆われた夜の中、彼はかすかに覗く月明かりに照らし出されながら、静かにほほえんでいました。その穏やかな、全ての哀しみを覆い隠してしまったような笑顔は、不思議とどこか、今はもう会うことの出来ない、二度と垣間見ることのできない、大切なあの人の微笑に似ていました。 どうしたらいいのかわからず、ただ泣きそうになりながら首を横に振るわたしに、彼はおどけたように肩を竦めました。そして雪と同じ色をした長い髪をなびかせて、わたしに歩み寄ると、静かにひざを折り、わたしの手を取りました。優しい、今にも消えていなくなってしまいそうな、そんなたよりなく優しい力で、彼はわたしの指を握りました。 「な、小夜ちゃん。あいつさ、紳士に見せかけてごっついプライドの高いヤツじゃき、後悔するんがこの世で一番嫌いなはずなんじゃ。だから、俺やお前さんが、このまんま“ココ”におったら駄目じゃ。こんなはずじゃありませんでした、つうて、俺らが紳士様の人生初の後悔になっちまう。やってあいつ、わかっててハグレもんでおるような奴に、相合傘しかけてくるようなヤツなんよ。俺らが“ココ”に閉じこもってちゃ、あいつ、紳士の仕事、いつまでたっても終わらんじゃろ」 彼の声は、落ち着いていました。とても飄々として、時折笑い声を混ぜながら、彼はゆっくりと、俯くわたしにそう語りかけました。彼は、わかっていました。彼の称する“ココ”が、どんな場所なのか。迷子になったわたしたちの溺れる夢が、どんなものなのか。彼はとてもよく、わかっていました。わかっていて、それでもなお、溺れ続けていたいとどこかで願う心さえ理解しながら、彼は今、こうして、わたしの手を握っています。 兄は優しかった。優しく、穏やかで、とても勤勉で、けれどこの人の言うとおり、どこか臆病な人でした。そばにいる人の哀しみや、戸惑い、苦しみを、わかってあげられない、癒すことができない、そんな自分を決して許すことのできない人でした。だからこそあの人は、いつもわたしに囁いたのです。笑って、と。わたしを悲しませたままでいる自分が許せなかったから。雪の日にひとりで佇む彼を許せなかったから。それだけが優秀かつ紳士なあの人のたったひとつの弱さであり、閉鎖性であり、脆さだった。命のともしびが消えゆくその瞬間まで、あの人はどこまでもあの人らしくあり続けようとしたのです。 気がつくと、わたしの頬の上を、ぼろぼろと涙が落ちていました。あの人がいなくなってから45日目、それはわたしが初めて流した涙でした。そのしおからい水はそれすなわち、夢の終わりを告げる合図でもありました。あの人がいなくなって、悲しい。つらい。胸が痛い。もっと、一緒にいてほしかった。もう一度会いたい。帰ってきてほしい。死なないで、死なないで、どこにもいかないで。ありとあらゆる封じていた言葉のすべてが、頬をすべりおちるひとしずくごとに、雪のような静かさでわたしの胸に灯ってゆきました。彼は、声もなく泣きつづけるわたしの手を握ったまま、じっと、静かに雪の降る空を眺めていました。思えば告別式のあの日から、彼はずっと、空ばかりを見つめていました。誰が思うより強く、早く、この人はこの長い夜を清算するすべを捜し求めていたのかもしれません。 長い、長い時間の後に、ようやく嗚咽をおさめて空を仰ぐと、雪雲のはざまには、鈍く光る月が姿を現していました。わたしの手を握っていたもうひとつのてのひらの感触は、いつの間にか消えていました。目をこらした視界の果て、歩道のずっと先を歩いていたあの背中は、目をこらしたわたしをただ一度だけ振り返り、かすかに笑いました。たったひとことだけ動いた唇から、あの低く優しい声は届かなかったけれども、わたしにはもう、すべてがわかっていました。だって、返事のかわりにぎこちなくも口の端を持ち上げたわたしに、彼は、笑ってくれたから。もう戻らない夏の日のそれとは違う、けれど限りなく近いあの、鮮やかな笑顔で。 わらって。 それが、わたしと仁王雅治が初めて出会い、別れ、二度と巻き戻ることのない、甘い夢と冬の夜の話。 (fin) あとがきあれからどのくらい時が経ったのだろう 今はもう 地下鉄の新しい駅ができて あの頃は夜の9時になると 音をたてて工事をしていたね それが待ち合わせのいつもの合図のように ふたり息をきらし走ってたね 白く光る淡雪さえ とけないほどに寒い そんな夜に出会った かじかむこの手にぎり 「寒い?」と笑った君は 今はもうここにいない あでやかに咲き 消えてしまう蛍火 明け方の西空 何かに飲み込まれ 星たちは消え去り まばゆい力生まれ 前は朝になるとすぐに 不安がやってきたんだよ 今は悲しいけど それがない分少しだけ ホントほっとしているんだけど 白く冷たい頬に 最後の花かざるとき 遠く君をみていた なぜ、みんなが泣き出し 今 別れを告げるこのとき 一人ぽつんとしていた まるで海に咲く とても小さな和火 白く光る淡雪さえ とけないほどに寒い そんな夜に出会った かじかむこの手にぎり 「寒い?」と笑った君は 今はもうここにいない あでやかに咲き 消えてしまう蛍火 Tales Of Legendia「蛍火」 捏造な上に、暗い話で申し訳ありませんでした。ぼたもちの大好きなゲームの挿入歌である「蛍火」という歌を聴いて、いつか形にしたいとを決めていた物語です。昔の日本では、咲く、という言葉を、わらう、と読んだそうです。 柳生という人は、どこまでも優しいけれども、優しさに妥協出来ない人のような気がします。仁王はきっとそれが出来る。今回はあまり上手く書けませんでしたが、仁王が弱く柳生が強いお話ではなく、柳生が弱く仁王が強いお話というものを、いつか書いてみたいです。最後までお読みくださりありがとうございました!感想や批判など、いただけたら嬉しいです。 |