あなたのままで愛すのになんもいらんのよ。それが彼の口癖だった。お前は、なんも心配いらんのよ。猫のようにつりあがった彼の細いまなじりは、そう言うときだけいつも、ちょっと困ったように、仕方なさそうに垂れ下がる。だのに口許だけは穏やかに、愛しそうに、静かにやんわりとほほえむので、私は彼の、その矛盾に満ちた表情が苦手だった。せつなかった。まるで駄々をこねる子供に、あたたかく言い聞かせる母親のようなその笑顔。彼は私を慈しみ、育て、包み、許す人で、そして私が私でありつづけることを、命を注ぎ込むように苛烈に祈る人だった。それは彼にとって息をすることと同じで、彼はそういう風に私を愛していたのだった。なんもいらんのよ。だから、それが彼の口癖。お前は、なんも心配いらんのよ。なんも、いらんのよ。 ああ本当に、彼は最初から最後まで、馬鹿のように、狂信者のように、そう繰り返し続けていた。彼の愛は勝手で、乱暴で、どこまでも隙なく完結していて、そして憎悪したくなるほどに、優しかった。とても。とてもとても、とても。最初から最後まで、いつまでも、いつの日も、今、この瞬間でさえ、とても、彼の愛は、優しい。そして、いとおしい。 彼、仁王雅治が姿を消すことになったのは、高校3年生、夏の終わりだ。高等部での部活動を引退し、引継の終わった矢先だった。いつも待ち合わせて下校するはずの場所に、彼は来なかった。バスがよっつ、通り過ぎてしまっても、彼が現れなかったので、私は来た道を引き返し、再び昇降口をくぐったのだ。果たして、彼はそこにいた。屈強な体育教師に腕を掴まれて、ほとんどなじりつける勢いで何かを怒鳴りつけられていたのだった。言葉を失った私の視界に、バラバラに散らばった窓ガラスの破片と、おびただしいほどの血の跡。体育教師の身体の後ろに、死体のように伸びた誰かの足がだらりと伸びているのも、見えた。まもなく担架が運ばれてきて、担ぎ上げられたのは3つ先のクラス、バスケ部員の少年だった。意識はなく、鼻から下が血で真っ赤に染まっていて、白いシャツがまだらに濡れていた。 靴箱の横で立ち尽くす私に気付いたのは、教師の方が先だった。おい、柳生、お前、用務に行ってガラスの始末を頼んできてくれ。怒りと、焦りと、動揺の入り混じった声だった。とっさに返事が出来ないでいる私に、彼は、仁王くんは、びくりと肩を震わせたけれど、しかし頑なにこちらを見ようとしなかった。前髪の隙間から覗くまなざしは、修羅のように険しい。口許は引き結ばれて、じっと、既に運び去られた少年の倒れていた場所を、睨み付けている。 「来い!!」と教師に荒々しく腕を引っ張られて、素直に歩き出した彼は、その瞬間だけ、私のことを見た。目が合ったその一瞬、能面のような無表情だった彼の表情は、しかしほんのまばたきの後には、おそろしく穏やかに微笑んでいたので、私は覚えず息を飲んでいた。あの、困ったような、仕方のなさそうな、聞き分けのない子供に静かに言い聞かせる母親のような、そんな表情。矛盾に満ちた、私の苦手なあの顔だ。その変化は驚嘆に足る鮮やかさで、それすなわち、不安定で、いびつで、奇妙だった。私が思わず口を開きかけると、彼はそれを拒むように先に、届かない声で、いつもの口癖を呟いた。 柳生。お前は、なんも心配いらんのよ。 彼はそのまま、職員室のある2階へ上がる階段へと、消えてしまい、あとには私と、おびただしく生々しい血の跡と、きらきらと星のように光るガラスのかけらたちだけが残された。放課後の、人気のなくなった廊下は真夜中に似た静寂に満ちていて、私はただ、途方に暮れていた。担架で運ばれていった、あの少年は、出血量から言って、顎が砕けているのかもしれない。なぜ?誰が、一体なんのために?教師に掴み上げられていた彼の腕、指先が真っ赤に染まっていたことを思い、馬鹿な、と、私はそれだけを考えていた。馬鹿な。そんな馬鹿なことが、あるはずがない。あの、優しい人が。昔から、嫉妬と憎悪の渦巻いていたテニス部の中で、どんなに上級生に殴り付けられようと、痛められようと、耐え続けていたあの人が。あの小さな黄色いボールを追い続け、打ち返し、勝利を得て、仲間と笑う、その瞬間を誰よりも誇りにしていた、あの人が。 仁王が停学処分になった事を知ったのは、その翌日だった。1ヶ月間の自宅謹慎。無抵抗だったバスケ部員の少年を、ガラス窓に叩き付け、顎を折るまで殴りつけた、というのが、彼の罪状だった。彼がどうしてそのような凶行に出たのか、事の経緯を知るものは誰もいない。今でさえ、だ。放課後の、生徒が誰も残っていない場所での事態だったこともあるし、何より彼自身が、教師にも警察にも黙秘を貫き通した。怪我を負った少年は、数ヶ月の間入院を強いられ、言葉を発することの出来る状況になるまでにブランクがかかる。私を始め、引退した元テニス部員の面々は、それぞれで、また一団となって彼に真相を確かめようと躍起になったが、彼は頑として口を割らなかった。家を訪ねても仁王の部屋はいつも真っ暗で、家人はそもそも、中学の折から在宅している場面を柳生は見たことがない。無情かつ永続的なコール音を響かせるだけだった仁王の携帯電話は、秋を迎える頃には既に使われていない旨を伝えるためだけのものになり、そして彼の停学が明けた1ヵ月後には、仁王は自主退学の届けを出し、既に立海を去っていた。決まっていたはずの立海大へのエスカレーター進学も取りやめて、机も、教材も、部室に忘れっぱなしになっていたタオルやプライベートボールまで、彼は全ての「仁王雅治」の痕跡を消し去って、消えていた。何もかも、完璧だった。あいつらしいね、と、幸村が冷然と、けれどどうしようもない苦さを帯びた笑みを浮かべたことを覚えている。テニス部レギュラー全員で、職員室を訪ねた帰りだった。 「自己完結型。誰より人間らしいけど、同時に誰より人間らしくない。あいつ、自分が消えれば、消失っていうスイッチを押せば、世界はまた何事もなくやり直すとでも思ってるのさ。愚かだね。ネジで巻けば動く人形みたいに、お手軽じゃないんだけどな。俺たちは」 彼は淡々とそう言って、無表情のまま、鋭くフェンスをつま先で蹴り付けた。いつも真っ先に止めに入るはずの真田や、柳でさえ、この時の幸村を諌めようとはしなかった。暫く、誰も何も口にしようとしなかった。口に出来なかったのだ。「そんなのって、」長い長い間が空いて、ようやく口火を切ったのは、一番後ろに佇んでいた浦山だった。 「そんなのって、嫌でヤンス…」 「嫌とか、そういう問題じゃねーだろ」 涙声の浦山の言葉に、切原の声が、かぶせられた。燃え上がるような、苛烈な怒りが込められた声だった。 「嫌とか言ってる場合じゃねえだろ。ニオ先輩は、いねえんだよ。ここにはもう、いねえんだよ。嫌とか、そんなん、わかりきってんだよ、わかってんだよ、そんくらい、みんな!!黙ってろよ、声に出してお前が、お前なんかが言うな!!」 「だって、だって…嫌でヤンス…」 「ッテメェ!!!!」 「赤也」 大粒の涙を落としながら、呻くように言葉を綴る浦山の襟首を掴みかけた切原を、諌めたのは幸村だった。静かな、どこまでも静かな、無表情。ギリギリと力の込められた切原の指から、スッと、力が抜けて、開放された浦山が座り込む。悲しげに、ただ悲しげに、泣き始める浦山の項垂れた横。そして、俯き、すべてをかみ殺すようにきつく拳を握る切原の横で、嫌味なほど晴れ渡った空を仰いだ幸村が、つぶやく。「おかしいね」と、零された彼の声音は、ぽっかりとした空虚だった。 「かんたんなはずなのにね、全部。失くしたくないなら、言えばいい。放れたくないなら、手離さなきゃいい。こんなわかりやすい道理ったらないのに――臆病だね、あいつも、…俺も、お前らも。かんたんなはずなのにね」 ああ、なにもかも、かんたんなはずなのに。そう、繰り返し落とされる幸村の呟きを聞きながら、私の頭の中で、彼の、最後に聞いた言葉がめぐって、心を侵した。柳生。お前は、なんも心配いらんのよ。そう彼が口に出すたびに、矛盾に満ちた表情をするたびに、私はいつも何かを叫びだしたくて、子供のように首を振って拒みたくて、やめてくださいと喚きたくて、とにかく何かをどうにかしたくて、けれど出来ず、何かがおそろしくて、ただ唇を噛むばかりだった。何が私をおそろしくさせたんだろう。すべてはかんたんな、はずだったのに。あれは、あの彼の矛盾に満ちた言葉と笑顔は、いつからだったろう。思い返して、すぐに答えに行き着く。ああ、そうだ、彼は確か、彼が彼自身の想いを私に初めて告げた、3年前の春にも、全く同じことを言った。彼の口癖の始まりは、そこからだ。 彼が私に初めて友情を超えた想いを告げてきたのは、中学3年夏の終わり、王者が王者である王冠を手離した全国大会の後だった。表彰式が終わり、それでもなお表面上だけはいつもの飄々とした無表情だった仁王に、私は、タオルを持っていったのだ。会場の裏手、ひとけのない木陰のそばで、彼はそれを黙って受け取り、けれど使おうとしないまま、押し殺した、しわがれた老爺のような声で、お前が好きだ、と、吐き出すように呟いた。とっさに返事が出来ず、目を瞠ってしまった私に、彼はすぐにいつもの顔に戻って、悪い、うそ、とすべてを冗談にする声で笑ったので、私は思わず、彼の二の腕を掴んだ。ここで、笑ってすべてをなかったことにしてはならない、と、本能のような感覚で、あの日の私は悟っていた。こんな、言い逃れの出来ない日に、いつだって手負いのけもののような彼が、不意に落としてしまった言葉だからこそ、余計に。だけれどさすがにすべてに平静ではいられなかったので、その日のわたしは「嫌ではありません」と、気の効くでもないたどたどしい言葉しか、返すことが出来なくて、けれどそれは確かに嘘ではなかった。本当に、嫌ではなかった。気持ち悪いだとか、おそろしいだとか、背徳だとか、そんなものはまったくわたしの思いに影を射さなかった。それほどには、私は仁王が大切だったのだ。しかしそんなわたしに、仁王はするりとすべての表情を落っことしてしまった。そうして、初めて言ったのだ。なんもいらんのよ、と。 「俺がお前さんを勝手に好いとうだけなんよ。だから、柳生、ええんよ。お前はなんもせんでええんよ。お前はなんも心配いらん。だから、ええんよ、無理とかなんも、お前はほんに、何もせんといて。頼むけえ」 低い声で、はじめからこちらの意思なんて何も必要としないと言うように、仁王はそう繰り返した。それは理不尽な言い分だったけれど、だけど彼は確かに必死で、切実で、テニスボールを追う時とはまた違う、追い詰められた、張り詰めた顔をしていた。そんな顔で、すまん、でも、頼む、そう繰り返した。だから私はそれ以上何も言えなくて、ただ、ゆるく首を縦に振る事しか出来なかったのだ。 それから少し時が経って、彼が私に触れてくるようになって、また少し時が経って、私が彼に触れるようになっても、彼はその口癖をやめなかった。こわばっていたはずの表情は、いつしか穏やかな笑顔に変わり、私を甘やかし、仕方なさそうに見つめるそれに変わった。そうして彼が花ひらくように変わってゆくたび、私はどんどん、言葉を失い、「おし」になってゆく自分を知った。私の不用意なひとことが彼を変え、そして彼を変えてしまうことはすなわち、自分をも変える。ただ、くだに、それがおそろしかった。臆病だったのだ。飲み込む言葉の中に、どれだけ彼が欲していたものがあったかもしれないのに。わたしは結局ただのひとつも、彼の矛盾を許してあげられなかった。かんたんな、はずだったのに。何も難しいことなんて、そこにはなかったはずなのに。 覚えず拳を握り締めた私の背を、静かに叩いたのは丸井だった。見下ろした彼は、じっと向こうの山すそをまっすぐに見つめていて、横顔を見下ろす私と視線は合わない。ただ、ひどく真摯な顔をしていた。彼は明朗で快活な性格だが、ときおりこんな、すべてを見透かすようなおとなびた顔をする。 「仁王が殴ったやつ、F組の川嶋だよな」 「……ええ」 「そっか」 わかった、と。隣にいる私にしか聞こえないような、そんな小さな声だったけれど、はっきりした響きがそこにはあった。思わず、何か知っているのか、と口を開きかけるが、丸井の真剣なまなざしが、その場でのそれ以上の追求を拒んでいた。丸井は必要があることとないことの線引きを、決して間違えない人物だ。私とは違う。その彼が今、口を開かないのならば、それは今が時ではないということだ。あるいは、彼もまだ、確信が持てていない事象なのかもしれない。私は唾を飲み込んで、顔を上げて丸井の視線の先を追った。山すそに沈みつつある太陽の赤い光は、あの日彼の指を染め上げていた血の色に似ていた。ああ、あの日も、私は彼に何も言えなかった。かたくなに私を見ることのなかった、あおざめてこわばった彼の横顔を、私はぼんやりと思い出していた。 仁王から着信があったのは、その日の夜だった。非通知設定。表示を見た瞬間に、間違いなく彼だと思った。すぐに取った。コールが2回目にさしかかる途中だったほどなので、相手もいささか勢いに飲まれたような沈黙があって、それから、柳生?という呼びかけがあった。やはり、彼だった。雑踏の中特有の騒がしさを背中にした、仁王の声はあっけらかんとしていた。駅だろうか。発車のベルに似た音がかすかに響いている。 『お前、取るん早すぎじゃ』 「当たり前でしょう」 思った以上に、強い声が出た。電話の向こうが一瞬、黙る。少しの間のあと、そうやね、と、静かな声で肯定があった。 『ごめんな』 「―――――」 謝ってほしいわけではなかった。彼は決して、罪悪を働いたわけではない。いや――人を傷付けたことは、罪悪か。しかし彼は、彼の心は、罪悪ではなかったはずだ。絶対に、罪悪ではなかったはずだ。だって、彼は優しいのだ。繊細で、傷付きやすく、偽悪的にふるまう裏で、本当は誰より誠実でものごとを真摯に見つめている。そんな、矛盾に満ちたきれいな心が、――好きだ。そう、私は彼が好きだ。たとえ自分がまだ浅薄な子供の身分であったとしても、彼への想いが薄っぺらいものでないことくらい、命を賭けたっていい、いくらだって誓えた。だけど私は、その想いのほんのひとすじですら、きちんと彼に伝えることが出来ていただろうか。彼は、わたしが愛を語ろうとするたび、隣に並ぼうとするたびに、動物的な感覚でそれを悟って、あの言葉を言い放った。なにもいらないと、少し困ったように、仕方なさそうに。駄々をこねる子供に、静かに言って聞かせる母親のように。それは彼の中で、時に免罪符であったり、線引きであったり、拒絶であったり、慈愛であったりした。彼は優しく、そして繊細で、傷付きやすく、臆病だった。 (そして) そして、私も同じだけ、臆病で、愚かで、卑怯だ。あの日、血まみれのこぶしを握って、かたく、こわばった、ナイフの切っ先のように鋭い顔をしていた彼のそばに、駆け寄らなかったのは、誰だ。去っていく彼の背中を、腕を、肩を掴んで、止めなかったのは、誰なんだ。 かんたんなことなのにね。難しいことなんて、何もないはずなのに。幸村のからっぽな呟きが脳裏に響く。わたしは、息を吸い込んだ。 「仁王くん。今、何処にいらっしゃるんですか」 『………なんで、そんなこと聞くん?』 仁王の声が呆れたように笑った。けれど本当はきっと違う、彼は今絶対に、笑ってなどいない。告白の最初の日、痛いほどにこわばった彼の口許。それくらいは、わかる。それくらいには、私は彼を見てきたから。 「理由なんて、ひとつしかない。貴方に会いに行きたいからです」 『来んでよか』 仁王の返事は端的だった。なぜです、と、問い掛ける。彼は答えなかった。ただひとつ、小さく息を吸い込む気配があって、乾いた声がたったひとこと、告げた。 『柳生。別れよう』 咄嗟に、言葉が出なかった。ぐらりと、世界が酩酊する。しかし、同時にどこかで、ああ、やっぱりと、予感していた言葉でもあったのが、虚しかった。どうしてだろう、仁王と愛を交わせば交わすたび、彼がどんどん遠くに行って、いつかは去ってしまうという予感が、いつからか私の中で消えることがなくなった。そういう刹那めいたものが、仁王には常に漂っていた。私はそれが恐ろしくて、不安で、ただ終末宣告を待つばかりの囚人にも似たこの世界が苦しくて、いつでも仁王への想いに溺れていた。そうして言葉を失っていった。仁王はそんな私を知っているのだろうか。知らないのかもしれなかった。それさえ疑われるほどに、私は彼に信頼されてはいないのかもしれなかった。彼の愛は勝手で、乱暴で、どこまでも隙なく完結していて、そして憎悪したくなるほどに、優しいのだった。いつも、いつでも。 拳を握り締める。かなしみなのか、怒りなのか、焦りなのか、愛しさなのか、言葉では言い尽くすことのできない激情がこみあげて、わたしを震わせた。電話の向こうで、彼がどんな表情をしてその言葉を放ったのかが、手に取るようにわかるからこそ、私は彼を許したくはなかった。矛盾に満ちた彼の笑顔を、許したくはなかった。 「嫌です」 『―――――』 「貴方の知っている私は、ここで、素直にわかりましたと、そう引き下がる人間だとでも?」 返事は、なかった。ただ、電話口からわずかに感じられた彼の呼気が、あきらめたみたいな笑みまじりであったことがわかって、私は焦りともどかしさに急かされるように、さらに言い募った。こんなにも必死に、何かを彼に伝えなければならないと、そう思い、遂げようとした瞬間が、今までの私に、彼の知る私に、果たしてあっただろうか。なかったように思う。始めること、終えること、育てること、理解すること、わかちあうこと。触れ合うようになって生まれるべきすべてのものを、私は、どんなにか彼に依存して過ごしていたのだろう。 「貴方が好きなんです。いなくならないでほしい。貴方に、そばにいて欲しいんです。私は愚かで、馬鹿で、鈍いばかりで、貴方の――いえ、貴方どころか私自身のことでさえ、想いだとか、気持ちだとか、心の機微だとかが、よくわからない。何かを伝えなければならないと思うのに、こんなにも思うのに、ただもどかしいばかりで、どうしようもない。でも、これだけは確かなんです。私は貴方が好きです。貴方じゃなきゃ駄目で、貴方がいい。みっともなくても構いません、お願いします。行かないで。貴方が何も聞かないでと言うなら、聞かない。川嶋くんを傷付けたことも、立海を去ってしまったことも、理由も、経緯も、何も聞かない。でも、お願いします。どうか、私のそばに、いてください」 何から何までがめちゃくちゃな言葉だった。けれど、板に水を流すようにあふれだしてきた言葉のすべてが、私から彼への思い、すべてだった。相変わらず、仁王からの返事はない。けれど、きつく息を詰めているような、こわばった呼吸が、通話口からは響いていた。緊張と、動揺と、それから、恐怖。まるで今まさにその心臓に銃弾を打ち込まれることがわかっている、わかっていてその瞬間を待っている、手負いのけもののような彼の気配だ。ふと目を離せば、すぐにどこかに消えてしまいそうなあやうさをいつだって身に纏っていた仁王からの、それはいやに雄弁な沈黙だった。 ひどく、ひどくひどく、ひどく、長く感じられる空白のあと、彼はひとこと、もう一度、「ごめん」、と言った。私は息を呑む。いつかのようにしわがれた、いやに老成した声。けれどいつかと違うのは、どうあっても明らかに違うのは、そのカラカラに乾いた声が、感情を消そうとして失敗し、ひびわれていたことだった。仁王くん、と、思わず呼びかける。コンコースの雑踏にまぎれて、吐き出される彼の息は震えて、よわくて、細くて、まるで。 『ごめんな』 落とすような彼の声の後ろで、ピリリリリ、と、列車の発車ベルが鳴った。プラットフォーム。行き交う雑踏の気配。鳴り続けるベルの音に乗せるように、泣き濡れた彼の小さな声が、もう一度、ごめん、と繰り返す。とっさに、あやまらないで、と、叫んだ。貴方が、何も謝る必要なんて、ない。だから、あやまらないで、愛しい人。どうか、私への愛を後悔しないで。 けれど、私が次の言葉を言いかける前に、するりと、あっけなく、ベルの音は途切れた。同時に、彼の気配が断絶する。ツー、ツー、と断続的に響く、無情な電子音。私と彼を繋ぐ、たったひとつの回線が、いま、彼の手によってひどく静かに、確実に断ち切られたのだと、理解するまでに、私はいくらか時間がかかった。飲み込むと同時に、するり、と、指から力が抜ける。ブッラクメッキの携帯電話がフローリングの床に当たって、ゴツリと音を立てて転がった。くるくると床をすべって、動かなくなったそれを、見下ろす。沈黙。おぞましいほどの、沈黙。 そのとき私は、恐ろしいほどの無表情で、そこに立っていた。頭の中を、彼の、ひびわれた最後の声がリフレインする。彼は、仁王は、―――泣いていた。テニスで挫折を味わったときも、理不尽な暴力に打たれた時も、王者が王者の王旗を手離したときでさえ、いつもただ表情を落っことし、感情のすべてを隠してしまうだけの仁王が、ごめんと言って、泣いていた。どうしようもない、もうなにもできない、あふれてしまって取り返しがつかない、そんな、声で。 ひょうひょうとして、猫のように気まぐれなのに、本質はとても静かで、誇り高く、まじめで、いつだって世界のありかたすべてをきちんと見つめている、仁王。ペテン師を称しながらも、本当はあまり嘘が得意じゃなくて、傷つくのも傷付けられるのも好きじゃなくて、自分にも人にも、不器用な、仁王。皮肉っぽくシニカルな苦笑が、不意をつかれてほほえみに変わる瞬間。銀の髪がひるがえった時のかがやき、はにかむときに口許を隠すクセ、歩くときは絶対に左側が良くて、ラケットを握ると少しだけ右側に下がる肩とか、肉が好きで野菜が嫌い、あまのじゃくだけど本当のあまのじゃくというわけでもなくて、本当は幸村の強く毅然とした背中をいっとう尊敬していたり、本当は真田の愚直さをいっとう誇りに思っていたり、本当は丸井の広くて深いところをいっとう賞賛していて、本当は桑原の優しさがいっとう優しすぎてたまらなかったりして、本当は切原をいっとうかわいがってめいっぱいに甘やかしていたりすることとか、本当は浦山の正直さをいっとうまぶしく見つめていたり、することとか。全部、私は知っていた。本当の彼のことを、私はとてもよく、知っていた。だって、好きだから。彼が大切だから。彼が、私をずっと見つめてきたというのなら、私は、彼を、ずっと見つめ返していたのだから。だから、わかる。彼が泣くということがどういうときか、どうしたって、賭けたっていいくらい、死んだっていいくらい、わかる。わかるんだ。 だからこそこんなにも、すべてが悲しくてたまらない。 ブウン、と、携帯が鳴った。静かに、それを見下ろす。表示されている名前を見て、のろのろと腕を伸ばし、ボタンを押した。はい、と、返事をした私の声に、他者の感情の機微に恐ろしく察しのいい丸井は、どうした、と受話器の向こうで訝しげな声をあげた。私は、ほほえんだ。何も、と。それならいいけど、と、丸井の声は歯切れが悪かった。私が静かに待つと、彼はきまりの悪い風な声で、あのさ、と切り出した。 『川嶋、いるだろぃ。仁、……あいつがさ、殴ったヤツ。バスケ部の。俺さ、川嶋とは直接話した事とかねーけど、バスケ部にダチ、何人かいるからさ、話、ちょっと聞いてみたんだよ。あんま、本人以外から聞いたような話とか、確信ねえし、言いたくねーんだけどさ。…なんかどうも川嶋、前付き合ってた女が仁王に横恋慕して、捨てられたらしくて。勿論、仁王はその女一蹴したって聞いてるけど、どうもさ、それから川嶋、仁王にやたら突っ掛かってたらしくてよ。詳しいことまでは知らねーけど、なんか、ガキレベルの嫌がらせやら何やらしてたみてえなんだ。まあでも俺たちが知ってる通り、仁王ってそういうの、めっきり意に介さねータイプじゃん。意に介さないってのも違うか、表に出さない?そんな感じ。んで、それがまた川嶋の火に油注いだみたいでさ。 川嶋が突っ掛かり始めてから、大体1ヶ月くらいかな。仁王さ、高校に上がってから、何人も女から告られたり迫られたりしてんのに、いつも全員容赦なしに断りまくってただろ。元々がもてるヤツだし、中等部の頃は女遊び激しいので有名なヤツだったのに、何で急に?っつーんは、前々からそこそこ噂になってたとこだったんだよ。多分柳生も、誰かしらに理由訊かれたりしたこととか、あるだろ。俺だってかなり訊かれまくったしさ。知らねーよっつったけど』 丸井の言葉に、私はかすかに頷いた。丸井、そしておそらく口には出さないけれど幸村や柳、あとはあれでいて勘の鋭い切原は、私と仁王の3年前からの関係の変遷に、うすうす勘付いているに違いない人物だった。仁王は、私と触れ合うようになってから、それまで周囲を盛んに騒がせていた女性問題のゴシップをいっせいにもみ消し、女生徒からの告白や誘いを全てすげなく突っぱねるようになった。それが彼の、私への愛の証明であるらしかった。中学時代の彼の浮世離れ振りを知っている持ち上がり組の者たちは、みな一様に仁王の変わりざまに興味を惹かれ、私や丸井、おそらくは人好きのする桑原などにもそれとなく理由を尋ねに来ていたのだが、答えられる者は誰もいなかった。答えられるはずもなかったからだ。高等部に進学して1年も経つ頃にはその波も沈静化したのだが、しかし最近になってまた、チラホラと仁王の変化に興味を示す者たちが増えてきている傾向にあった。その理由を、丸井は、「たぶん」と前置きをして、続ける。 『……多分、それさ。なんつーか、川嶋が、正統派のイビリじゃ仁王が動じねえってわかったってことでさ。……なんつーか、言いにくいけど。仁王がさ、女からヤローに宗旨替えして、…ホモになりやがったんじゃねえかって、仲間内に言ったらしいんだよ。タチ悪ィ、ほんと、つまんねえ、笑えねぇ話なんだけどさ。それで川嶋、仁王のそれらしいゴシップとか、周辺かぎまわるようになったらしくて。そっからたぶん、また噂が再燃したんじゃねえかなと思うんだ。それで、多分、川嶋さ……仁王の、一番それっぽく見える相手をさ、多分……、』 丸井は、そこで言いにくそうに、言葉を切った。しばしの沈黙の後、私は、静かに言葉を続けた。丸井が言いたくて、想像して、やりきれず、口に出せずにいること。言い出しにくいのは、当然だろう。だって、決まっている。仁王の最も“それらしく”見える、格好の相手なんて。 「川嶋くんは、仁王くんと私の仲を、邪推するようになった、ということですね?」 電話口の向こうの丸井は黙ったままだった。沈黙はすなわち、肯定だ。パズルのピースが、ぴたりと合った音がした。血にまみれた彼のてのひら、割れた窓ガラス、だらりと伸びた少年の足、余計な口を開く事のないよう、砕かれた顎。倒れた川嶋を、じっと見下ろしていた彼の横顔を思い出す。色を失ってこわばった頬、振り向いた時のいびつな笑顔、穏やかに、いつくしむように、つむぎだされた彼の口癖。柳生、お前は、なんも心配いらんのよ。なんも心配いらんのよ。好きになってごめん。始めてしまってごめん。巻き込んでごめん。何も言えなくて、言わなくて、言わせなくて、ごめん。だから。 『別れよう』 拳を握る。意識せずとも、体が震えた。テニスをする、白くしなやかで、獣のような彼の腕。ラケットを握り、ガットをなぞり、ボールを追う彼の指が、繊細で、もどかしく、傷つくことにも傷つけることにも臆病な彼の指が、その拳を凶器に変えたとき、私は、何処にいたんだろう。何をしていたんだろう。彼が、目の前に立つ少年を襲い、傷付け、痛めつける決意を得たその瞬間、彼の中の私は、笑っていたのだろうか。笑って、駆け出す彼を見送ったのだろうか。そうして、すべて終わりにしてしまえばいいと、彼の背中を押したのだろうか。そんなときばかり、彼のすべてを許して、受け入れて、さよならを告げて。ああ、仁王の愛は本当に、勝手だ。勝手で、乱暴で、どこまでも隙なく完結していて、そして憎悪したくなるほどに、優しかった。せつなかった。とても。とてもとても、とても。最初から最後まで、いつまでも、いつの日も、今、この瞬間でさえ、とても、彼の愛は、優しい。せつない。そして、いとおしく。 ひょうひょうとして、猫のように気まぐれ、本質はとても静かで、誇り高く、まじめ。いつだって世界のありかたすべてをきちんと見つめていて、本当はあまり嘘が得意じゃなくて、傷つくのも傷付けられるのも好きじゃなくて、自分にも人にも、不器用。皮肉っぽくシニカルな苦笑が、不意をつかれてほほえみに変わる瞬間。銀の髪がひるがえった時のかがやき、はにかむときに口許を隠すクセ、歩くときは絶対に左側が良くて、ラケットを握ると少しだけ右側に下がる肩とか、肉が好きで野菜が嫌い、あまのじゃくだけど本当のあまのじゃくというわけでもなくて、本当は幸村の強く毅然とした背中をいっとう尊敬していたり、本当は真田の愚直さをいっとう誇りに思っていたり、本当は丸井の広くて深いところをいっとう賞賛していて、本当は桑原の優しさがいっとう優しすぎてたまらなかったりして、本当は切原をいっとうかわいがってめいっぱいに甘やかしていたりすることとか、本当は浦山の正直さをいっとうまぶしく見つめていたり、することとか。 よろこびも、笑顔も、あたたかかったり優しかったりするものすべてをなげうてるほどに、私をいっとう、愛してくれていたり、することとか。 全部、私は知っていた。本当の彼のことを、私はとてもよく、知っていた。だって、好きだから。彼が大切だから。彼が、私をずっと見つめてきたというのなら、私は、彼を、ずっと見つめ返していたのだから。 受話器の向こうの丸井は、何も言わなかった。ただ、黙って、私の、どうにもならない感情と時間が、涙になって、ゆき過ぎていくのを待っていた。遠ざかってゆく電車のベル。携帯電話の液晶の向こう、カウントされていく時間のひとつひとつ、すべてが、彼に優しかったならいいのに。かなうなら、花が咲くように、散るように、すべての時間が巻き戻って、笑いあって、鮮やかなまま、彼の元にかえってゆけばいいのに。そうしてきっと今度こそ、私は間違えないで、彼の腕を、背中を、肩を掴んで、ただ、すべてをありのままに。 君を、あなたを、あなたのままで愛すのに。 (fin) だいすきだから ずっと なんにも心配いらないわ My darling Stay gold 無邪気にわらってくださいな いつまでも あなたの瞳の奥にひそむ少年 わたしの本能をくすぐってやまない ああ どうか このままGood Night 悲しいことは きっと この先にもいっぱいあるわ My darling Stay gold 傷つくことも大事だから だいすきだから ずっと なんにも心配いらないわ My darling Stay gold 無邪気にわらってくださいな いつまでも 就職も決まって 遊んでばっかりいらんないね 大人の常識 知恵を身につけるのもいい ああ今日は このまま Good Night 変わりゆくのが ひとの 心の常だと言いますが ねえDarling Your soul やさしく輝きつづけるわ だいすきだから ずっと なんにも心配いらないわ My darling Stay gold 無邪気に笑ってくださいな いつまでも だいすきだから ずっと なんにも心配いらないわ My darling Stay gold 無邪気に笑っていられたら いつの日も <宇多田ヒカル/Stay Gold> あとがきヒッキーの「Stay Gold」を聞いて、思い浮かんだ82でした。仁王はこういう「人の話を聞けエエエエエェ!」という愛し方する子だと思います。最初の印象では、この「Stay Gold」、仁王→柳生の歌かなと思いましたが、「あなたはあなたのままでいるのが一番美しい」と考えてるのは、たぶんどっちもどっちなんじゃないかなと思います。ベクトルが違うだけで。蛇足かもですが、この数年後に、トルコあたりを放浪してプータローをやってた仁王くんを、国境なき医師団に所属した柳生さんが追いかけていって、再会したらいいなと思います。石レンガの乾いた壁の横、なイメージ。そしてそこでくっついてほしい。再度。生まれ変わったみたいにして。 |