闇のとばりが降りている。浮上した意識、枕もとの携帯にふれる、パネルが光る、午前2時54分、切り取られた時間。謙也は幾度かまばたきをしてから、ゆっくりと半身を起こした。朝にも夜にもつながらない、微妙な時間に目が覚めてしまったなあ、と思う。

ふと、視線をおとした。ついたままのてのひらの横に、かすかに触れている温度。謙也の隣では、毛布にくるまってみのむしのように、財前光が丸くなってねむっていた。寒がりな後輩なので、顔は毛布の鼻から上しか出ていない。まるっきりほんとうにみのむしだ。
ねむっている財前は、いつもの険の強さが嘘のように、すこやかな、いとけない顔をしていた。しんとした夜の中に、子どものような寝息がひびいている。出会った頃から変わらない、幼い表情。髪の色が変わっても、ピアスの数が増えても、このやわらかさだけは少しもうつりかわっていく様子を見せない。暗闇の中に、広がってはとけていく財前の呼吸のかけらを、謙也はじっと見下ろしてながめた。掬っても、掬い上げられるたぐいではないものが、謙也と財前がふたりで暮らす、この部屋には満ちている。この子を愛してから、そういったものばかり得た気がしている。いとしいものもあって、ただ無条件に心あたたまるものもあれば、触れるだけで胸をかきむしられるような痛さだけのものもあった。


「………ざーいぜん」


かすれた声で、名前を呼んでみる。財前は返事をしない。返事もしないし、目覚めない。財前は眠りが深いたちで、一度寝入れば地震があろうと火事があろうと、決して起きない。本人も自身のねぎたなさを自覚していて、たとえば出会ったばかりのころ、テニスの練習試合やどうしても遅刻できない朝のミーティングの日には、母親にたのむなり目覚ましをいくつも並べたり、謙也とこうして寄り添って過ごすようになってからは、それこそ当の謙也に目覚ましをたのむようになっていた。それに謙也が「ええよ」と返事をしてから、彼はほんとうに、目覚ましやアラームのたぐいをセットすることを一切放棄しはじめた。まったくもって、信頼されたものだなあ、と思っている。


(本当に)


信頼されている。そう思っている。財前光という人間は、謙也に対していつだって無遠慮で無邪気で、それでいて盲目だ。謙也はまぶしくて、光のかたまりみたいな存在で、正しくて、絶対に間違わないと思っているきらいがある。その盲信は幼くすらあった。財前もたぶんわかっている。わかっているところと、わかっていないところがある。彼は聡い子だから、わかっていないところがあることもわかっていることだろう。ただ彼が知っているもの、知ろうとしていないものの間にある、どうしてもうめられない深く切り立った空隙を、財前がどうするつもりがないこと、謙也もわかっててそのままにしていることが、この無条件な寂寞を呼ぶのだと知っている。


(……2010年、1月1日)


携帯のパネルにちかちかと浮かび上がる、無機質なイエローシグナルの文字。出会ってから、ひとめぐりが過ぎた。12年。長いな、と思う。それだけの時を過ごしてなお、知らないでいるものがある。見せないままでいたいものがある。それが正しいことなのか、謙也にはわからない。わからなくなる謙也など、財前の望む謙也ではないのかもしれないと思うと、もうとても謙也には言い出すことができなかった。出会ったばかりのころの自分は、こうではなかったと思う。もっと信じることや手を伸ばすことに忠実で、それだけを見つめることができていた。約束することも、この子を抱くこともこわくはなかった。今の自分は正しくなんかない。眩しくもない。間違わないと、言い切ることもできない。どこにでもいる、大人になりきれずにいる、だけど子どもでもいられなくなった、臆病なだけのいきもの。それでも。


(一緒にいたいなあ)


一緒にいたいなあ、これからも。闇のとばりにとけている、冬の夜の色をした財前の髪。幼い寝顔。白く浮かび上がる耳殻。みのむしのように毛布にくるまって、丸くなっているからだ。結局縮まることのなかった、10センチの身長差。指摘すると、今でも拗ねる。拗ねるとくちびるを尖らせて、それでちょっと下を向くんや。機嫌を取るには今も昔も甘いものがいい。あと、抱きしめるのもいい。でも照れ屋だから、前からじゃだめだ、後ろから、包み込むように。そうやって彼を抱いたときの、ゆるゆると抜けていく肩の力を見るのが好きなんだ。好きなんだ。好きなんだ。好きなんだ。

好きなんだ。















ワックスもジェルもおとされた、ただまっさらなだけの黒髪にふれる。謙也のてのひらにとてもよくなじんだその髪は、撫でられることにだってなじんでいて、その証にみのむしのかたまりはぬくもりを察知して敏感に、かたまりのまま謙也の胸に寄ってくる。けばだった毛布の中から伸びた財前の腕が、謙也のてのひらを探してまよって、そしてとうとうつかまえた。鼻から、口から、彼の体の全身から、謙也がそこにいることを信じている息がもれる。信じて、安らいだ、息がもれる。毛布に隠れたままのくちもとが、それでも心穏やかに、満足そうにゆるめられたのを見て、謙也はふと、自分の目にあたたかいものがにじむのを感じた。そうしてほほえむ。泣きたいのか、笑いたいのか、叫びだしたいのか、黙り込みたいのか、もう謙也には何ひとつわからなかった。大人になって迷子になった。子どもを手放して地図をなくした。だけどたぶん、そばにはこの子がいる。これまでもずっと、そしてたぶん、これからもかなうかぎりきっと。

正しくはない。眩しくもない。間違わないと、言い切ることもできない。どこにでもいる、大人になりきれずにいる、だけど子どもでもいられなくなった、臆病なだけのいきもの。だけど、俺はできるならずっと、この子のことを手離さないでいたい。この子にそばにいつづけてほしい。だって好きなんだ。好きなんだ。好きなんだ。好きなんだ。この子のことが好きなんだ。

謙也は伸ばされた指を手にとって、ひとつひとつからめて、携帯のフリップを閉じ、よそへ置いて、そうしてもういちどあたたかなねどこへすべりこんだ。みのむしの横へ。謙也の好きな、謙也を好きな、幼い寝顔の隣に。もういちどねむって、目がさめたら、ゆっくりと身支度をして、そして出不精のこの子をなだめすかして、初詣に行こう。近所のさびれた小さな神社でいい。機嫌が悪くなるのなら、出店でしるこを買ってやるんだ。そして言おう、きっと言おう、きみを失いたくないということを、全身全霊をかけて伝えよう。出会ったころよりいま少し、不自由になった俺たちだけど、掬おうとして掬い上げるこのできないもの、こわいもの、おそろしいもの、ずるいもの、きたないもの、君に見せるとどうしても言えないものもあるけれど。























好きなんだ。好きなんだ。好きなんだ。いま君の隣で新しい年を迎えられたことが、幸せでくるしくてたまらない。あけましておめでとう、涙の出るほど、いまも僕は君がいとしくてたまらない。

























あとがき



原作軸から9年たったあとの謙光。おおみそかから年が明け、元旦にうつりかわるとき、おめでたいはずなのにどうしてなんとなくせつないんだろう?というのをつきつめた結果、なんとなくこういう話になりました。約束することにも手を伸ばすことにも、何のてらいもためらいもなかったはずの謙也くんが、いざ大人になることを覚えたとき、名前のつけられない焦燥とか不安にせめたてられ、人を好きでいることに臆病心をめばえさせてしまったなら、それって考えるだけでくるしいなあ、と思います。モチ子は謙也くんにピーターパンでいてほしいのかもしれないし、それを財前くんの目をとおして投影しているのかもしれないと、書きながら気付いた気がしました。タイトルは、「恋」の旧字体である「戀」のつくりをあらわす言葉遊びからとりました。「いとしいとしと言う心」が「恋」だなんて、昔の日本人ってほんとうに風流だなあと思います。総合するとなにがいいたいのかよくわかんないけど、とにもかくにもお読みくださりありがとうございました!