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彼は時々不意に、生きるのをやめてしまいたくなる、そうだ。最初にそうと告げられた時はそりゃあ、驚いた。彼の口調ときたらまるで、今日の夕飯は何のおかずでしょうか、肉でしょうか、魚でしょうかと、意味があって意味のないようなものをこぼすその時と、まるっきり変わらなかったのだから。私はその時、彼の言葉を理解するのに、ほんの少し、労力と神経とを必要とした。彼はその間も、いつものようにひょうひょうと笑って、錆びたフェンスの隙間から、てらてら光るシャボンの玉を飛ばしていた。今日は風が冷たい。ふいに鋭さを増すそれらにはじかれ、シャボンの玉は浮き上がるそばから、見えないどこかへと消えていく。見えなくなるまぎわの鈍色の発光は、ほんのわずか、彼の長い髪の色に似ていると思った。 「………そうですか」 長い、長い時間を労したあと、わたしが彼に言えたのは、たったそれっぽっちの言葉だった。けれど彼は、わたしのその淡白とも言える短い反応を、どうやら至極お気に召したようで、きつねのように吊り上がったまなじりをきゅっと細めて、いやあな風に笑って見せる。ああ、ほんとうに、いやな笑い方!この世の酸いも甘いも知り尽くしたような、遠い笑顔。人は彼のほほえみを見ると、彼を詐欺師とあげつらう。仁王は、こわい。仁王は、おそろしい。そんな益体のない風聞も、彼はなんとでもいえといわんばかりに、やはりひょうひょうと笑って聞き流していた。彼は、表情ばかりを取り繕うのが、とても巧みだった。 「俺が、消えちまいたい、言うて、勿体らしく叱り付けたりせんかったの、お前さんくらいじゃけ」 お前さんが一番、そういうの、言いそうに見えたんじゃけどな。紳士やもん。 仁王くんはそう言って、酔っ払ったようにけらけら笑い、柵の前にぺたんと座ると、また悠々とシャボンの泡を吹かし始めた。彼の前にはラップに包まれた粉末の洗剤と、ヨーグルトの空きカップがふたつ、実験材料よろしく並べられている。彼のシャボンは常に手作りだった。調達は彼の家の台所シンクと、ごみばこから。彼は月に3回ほど、屋上という、この一番空に近い場所から、ぷかぷかとシャボンを飛ばす。それは彼のメンタルグラフが、月に3回、やや下降傾向になることと同義だった。そして空に飛んだシャボンが年に10を数える頃、彼はシャボンに自分の夢を見はじめるのだ。まだ曖昧な色のそれらのビジョンは、20を数える頃にはチューナーが合うように鮮明になり、30を数えたときとうとう、彼はシャボンに自分自身を重ね合わせることに成功する。そうして吸い込まれそうな空の中、鈍色のシャボンがはじけてぱちりと消えたとき、呼応するように彼の心に、ぽつりと願いが浮かぶのだそうだ。ああ、消えてしまいたいと。 「叱って欲しかったんですか?」 「ぜんぜん。俺、説教されんの嫌いじゃけ」 「存じ上げてます」 「ほうじゃね、紳士のやぎゅ君は、俺のパートナーやもんね。じゃ、その紳士のやぎゅ君は、俺が何で消えちまいたいのかとか、聞かんの?」 「理由なんて後から付随するものでしょ。私があなたに聞きたいのは、あなたが私に、」 言葉を止めて、彼を見る。問い掛けていながら、彼は手作りのシャボン液を入れたヨーグルトのカップに視線を落としていて、私を見ていなかった。彼がこうなったとき、シャボンに見せる執着はすごい。けれど私は慌てなかった。眼鏡のつるを持ち上げながら、私は流暢に言葉を流す。 「あなたが私に、今、何を求めているのかです」 この言葉に彼はわずかに、ほんのわずかに、薄く骨ばった肩を揺らした。ああ、よかった。私の言葉はまだ、彼に対して有効である。長い前髪の下からチラリとこちらを伺った彼は、人になつかない手負いの獣のようだった。 「俺は別に、お前さんになんも求めたりせん」 しばらく黙ったあと、再度たんたんと、しかしどこか不機嫌そうに呟きを零した彼の手はひたすら、ラップにくるまれた粉末洗剤をつまんで、カップに流し込む作業を繰り返していた。私はその手元を見つめる。骨ばった大きな手。彼のそのてのひらがグリップを握るとき、私は誰よりそれを近くで見ることが許されている。彼の手が風を切って動くのを、いちばん近くで。覚えず、私は笑っていた。彼にとってのその意味を知らない者こそ、シャボンのように、消えてなくなればいいのだ。 「ええ、勿論知ってますよ。どんなに落ち込んだとしても、仁王君はいつだって自己完結して行ってしまう、強い強い人ですもんね」 「……嫌味くせ」 仁王君は嫌そうに顔を顰めて、シッ、シッ、と片手で私を追い払う仕草をした。けれど、カップをストローでかき混ぜるもう片方の手は、力をなくして怯えたようにこわばっている。落ち込んでいる、と指摘されたそのことが、怖いのだ、彼は。彼は自分の中の生々しい感情を他者にさらすことを、ひどく苦手としていた。だから私はその手をつかみ、ぎゅうと握る。彼がぎょっと目を見開くのが見えた。常にひょうひょうと細めている彼のまなざしが、驚きのあまりに大きくなると、その印象がずいぶん幼く、かわいらしくなることを私は知っていた。搦め手が得意な仁王君は、案外直球に弱い。 「でも、私は貴方が好きなんです。貴方がひとりで行ってしまうと言うのなら、私は貴方を追いますよ。私にはそのままの貴方が必要なんだ。ねえ、ついていってもいいでしょう?シャボンを追って、大気圏まで。ロマンがあって実にいいじゃないですか」 私が首をかしげて微笑むと、彼はカエルのつぶれたような声を出して、とうとう手のひらからストローを取り落とした。キショイ、とこの世の終わりのような声で呻いた仁王君の表情は、心底うんざりして“ぶさいく”であるけれど、風に揺れる銀の髪から覗く耳の先は、感情に正直に、真っ赤に染まってかわいらしかった。どんな科学者が軒を連ねて開発せども、この赤はシャボンには永遠に表現できない色合いだ。だって、今日も貴方は生きているのだ。地上に根を下ろす私の一番そばで。 「言ってください。貴方は私に何を望みますか?」 私が言い終わるか否か、仁王君の攻撃的なキスが私の唇をとらえた。噛み付いてくる彼の荒れた唇を舌でなぞり、伸び上がって縋り付く、骨ばった背に腕を回す。鳥の羽の名残だと言われる肩の骨を指でたどり、きつく抱きしめると、彼の身体は少し震えて、指先が私のセーターの背を強く掴んだ。ああこんなにも、彼の手は大空への旅立ちを拒んでいる。蹴り倒されたヨーグルトのカップからあふれたシャボン液は、鈍色に光って、やがてアスファルトにしみこんで、見えなくなった。 (fin) あとがき初めて書いた82です。仁王は屋上でシャボン吹くのが好き、と聞いたので。82は柳生さんのキャラのとらえかた、色合いがすごく変わってくるカップリングだと思います。奥が深い。そしてわたしが書く柳生さんはキショくて腹黒い。 |