彼の名を、知りたかった。誰も彼を名で呼ぼうとしなかったから、というのもあるし、また私自身、彼本人から言葉を引き出す術も持たなかったのだ。けれど、私は諦めたくなかった。だって、私は知りたかったのだ、彼を。もっと彼を、彼のことを、この世界に生きる誰より深く、彼を知りたいと。そう。彼を一目見た、あのときから。

















彼と出会ったのは、私が3年前から主治医を務めている、幸村家の庭先でのことだ。私はその屋敷の一人息子である、精市の回診を主立って担当していた。(精市は後天性の免疫不全の病を患っており、私と同じ生まれて24年の歳月の折、既に半分を寝台の上で過ごしていた。)そして、私が今、その名を求めてやまない彼は、この幸村家の屋敷で下働きを務める、とある下男の青年だった。美しい人だった。襟足まで伸ばした銀の髪を、首の後ろで束ねており、瞳は冬の空のように、冴えた切れ長の青。口元にはひとつだけホクロがあった。無愛想だが、凛とした美貌は常に冴えざえとして、それはまるで夜空に一条光る、弓張り月のようでさえあった。
ただ、彼には出会ったその日から変わらぬ、重い、重いハンディがあった。彼は「おし」なのだ。口がきけない。それが先天性のものなのか、後天的に現れた症状なのか、私には判断がつかなかった。何せ私は、彼の名前すら知らない。屋敷の者達でさえ、誰も彼の事情を深く知らずにいるようだった。


「こいつぁ、耳がイカれてるんでさ。旦那様のお名前ですら理解できやしねぇ。精市ぼっちゃんが気まぐれで雇ったものの、いや、不便ったらないね!」


下男頭である髭面の男は、彼の事をこう称した。いよいよ冬を過ぎた頃から容体が思わしくなくなり始めた精市のため、この春から屋敷の離れに居を構えて仕事に従事することになった私に、専属の小間使いとして紹介された下男が、彼だったのだ。彼を評する下男頭のあまりの言い草に、思わず顔を顰めた私を、頭は肩を竦め、黄ばんだ歯を見せて笑った。悪びれない。当の『彼』はそのさなかでも全く顔色を変えず、徹頭徹尾の無表情を保っていた。


「でも何、『つんぼ』に『おし』と傷物ではありますが、仕事はちゃんとこなしますよ。指でチョイと合図してやりゃいいんでさ。こいつが食事、こいつが掃除…、てなふうにね。旦那様と精市様は、決して柳生先生が憎くてこいつを寄越したわけじゃないんですぜ。しかし万一、何かこいつが粗相をするようなら、すぐにもわしに知らせてくだせえ。代わりならいくらでもききまさあ」
「……彼の名は?」


私はこの下男頭の物言いに、言いようのない不快感と虚しさを覚えていた。が、その場では精市の顔を立て、ただ押し殺した声で、青年の名を問い掛けるだけに留めた。渦中の彼は、その間も仮面のような無表情で、じっと私の口元のあたりを見つめていた。唇の動きを読んでいるのかもしれない。頭は私の質問に、道化のようにおどけて肩を竦めて見せる。


「さあ、知りゃしませんよ。名前なんて呼んだって、こいつに聞こえるわけでもなし。まあ俺達使用人は、便宜上で『ヤマネコ』と呼んどりますがね。…おい、ヤマネコ!柳生先生を離れにご案内しろ」


頭が指で庭の奥を指し示すと、彼はなんの戸惑いもなく踵を返し、ついてくることを促すように、私にチラリと冷めた目線を寄越した。慌てた私が続いて歩き出したのを確認すると、また何事もなかったかのように歩き出す。なるほど、確かに猫のようなしなやかさだった。彼が足を進めるたび、彼の背中では束ねた銀の髪が揺れる。銀の軌跡は空を切り、傷のように輝いて見えた。




















案内された離れは、木造の平屋だった。さほど母屋との距離はないが、木立の只中にあるためか、独特の静謐な雰囲気があった。鍵を使って室内に踏み込んだ青年は、黙々と火鉢に火を入れ、茶葉の準備をし、私を目線で促して屋内のあちこちの案内をした。生活に必要なものはほとんど揃っている。本好きの私への配慮なのか、小さな書斎さえ見受けられた。嬉しい。下宿から、すぐにも研究書を取り寄せなくては。
最後に勝手口から離れの裏に出た彼は、小さな井戸のポンプに浮いた錆を剥ぎ、水が出るか確認すると、右手に持っていたヤカンに真水をいっぱいに汲み上げた。慣れた仕草で火をおこし、かまどにかける。湯を沸かすまで待つ気でいるらしく、ようやく動くのをやめた青年に、私は話しかけた。「名前は何と仰るのですか?」

青年は反応しなかった。まるで私の方を見るでもなく、ただじっと、ヤカンをあぶってゆらゆら揺れる赤い火を眺めている。私はもう一度問い掛けた。


「お茶の準備をして下さっているんですね。有難う。名前は何と仰るのですか?」


しかし、やはり彼は答えない。
私はため息をつくと、かまどの前に佇んでいる彼の横にまわった。ようやく、彼が前髪の下から私に目線を寄越す。あまり友好的とは言えないまなざしだった。切れ長の瞳でじろりと睨まれる。その正直な態度が、とても好ましかった。そう、不思議なことに、彼のおよそ使用人らしくない在り様が、私にはひどく心地よかった。彼にはどこか、何者にもとらわれない、風のような自由を感じる。
私は少しだけ微笑むと、すぐに視線を火に戻してしまった彼の耳元に、今一度話しかけた。





「私には、聞こえない振りをなさらなくても結構ですよ。他の誰にもお話しませんから」





この言葉に、初めて彼は反応を見せた。ぎょっと瞠目した青い目が、私の顔をまじまじと覗き込む。やはり。笑って頷いた私に、彼は露骨に表情を歪め、派手な舌打ちをした。反応してしまったら、私の言葉を肯定するのと同じなのだ。


「私は医者ですから。巧みに隠していらっしゃいますけれど、瞳孔の動きを見ていれば、わかるものには何となくわかるんですよ」


私の説明に、青年は苦々しい、という感情を隠さない顰め面をした。ぷい、とよそを向く。彼がどんな理由で聴覚障害を装っているのかは知らないが、おそらく何か込み入った事情があるのだろう。後天的な言語障害は、心因性に拠る発症が多い。それらを無闇に尋ねられたくないのかもしれない。私はそれには一切、触れない事に決めた。そんな確認より先に、彼に対してすべきことがある。つんと尖った彼の白い顎を見ながら、私は頭を下げた。


「すみませんでした」


突然、前触れもなく頭を下げた私に、さしもの青年も驚いたようだった。下げた頭の向こうで、僅かだが狼狽しているような気配がある。私は頭を下げたまま、言葉を続けた。


「先ほどはすみませんでした。下男頭が貴方を中傷する言葉を吐く前に、止められなかった。お聞きになっていたのなら、きっとつらい思いをなさったでしょう。本当に、すみませんでした」


気配が動きを止めた。それでもなお頭を下げ続けていると、不意に私の肩に何かが触れ、かと思うと強引に押し上げられる。頭を上げると、青年が辟易したような表情で、けれど瞳に僅かに迷うような色を乗せながら、私の肩を掴んでいた。顔を上げろ、見られたものじゃないから、という彼の心の声が聞こえてくるようだった。
私が姿勢を正すと、彼はすぐに手を離し、その手で銀の髪をガシガシを掻き回して、へこりと小さく頭を下げた。唇の動きは、モウシワケアリマセン、と告げたようだった。許可なく主人の客人に触れたことを、彼は詫びたらしかった。彼にそうさせてしまったのは、言葉が不自由な彼の前で、私が浅薄な行動をしたからなのに。私が首を振って眼鏡を直すと、仕方のなさそうな薄い笑みが、青年の口元に浮かんだ。初めて浮かんだ、表情らしい表情だ。皮肉げな、ニヒリスティックな笑い。下男相手に変なやつ、と呆れた色合いで私を見ている。それは大人びた表情だったが、下男頭の前で見せた、あの仮面のような無表情より、よほど人間味があった。


ピィ、と、ヤカンが音を立てる。彼がそちらに顔を向けた先に、私は彼の手を取った。何事か、と眇めた青い目で私を振り返った彼に、私は3度目になる問い掛けを投げかけた。








「貴方の名前を、教えてください」








掴んだ彼の手を持ち上げて、空いたほうの私の手のひらの上に乗せる。ヤマネコ、なんてあざなではなく、彼だけの、本当の名前が聞きたい。彼は私の目をじっと見て、しばらく思案するように動かずにいたが、やがてその白く細い指で、手のひらの上にすらすらと文字を書いた。ニオウ、と、彼は書いたようだった。どんな字ですか、と問い掛けると、彼の目は和室の一角にある仏壇を見た。寺院の伽藍を守護する1対の仏像のことを、仁王尊と人は呼ぶ。おそらく、彼の名はその仁王尊から用いられたのだ。


「仁王君。貴方は、仁王君と仰るんですね。教えてくださって有難う。申し遅れました。私は、柳生と申します。至らない点も多々あると思いますが、どうか、これからよろしくお願い致しますね」


微笑むと、仁王は「腰の低いご主人様!」と私を揶揄する文面を空に描き、つられたように、また呆れた笑顔を見せた。笑うと切れ長の瞳がより細まって、どこか子供っぽくなるのが印象的だった。それが、私と彼――仁王君との、初めての邂逅の瞬間。


(to be continued…)





あとがき


書いてしまいました。言語障害仁王さんと医者の柳生さん。不謹慎だったらごめんなさい。指で柳生のてのひらに文字を書く仁王が書きたかった。本当に続くかどうかはわかりません…。