You are my home.









仁王雅治という奴は、“ねぐら”をいくつも持っている。それは大抵女の家であったり、女の家であったり、女の家であったりする。奴は、女がふっと息を抜く刹那の隙、その瞬間に胸の内に飛び込んでいくことを、天才的に得意としていた。女というものは、そも、退屈な日常の狭間に、ちょっとほのぐらい言葉だったり仕草だったりするものを、なんとなく欲している生き物だ。仁王はそれを、遊ぶみたいになんなく見抜き、抜群のタイミングでたわむれにぽいと投げて寄越してくるような、そういう憎たらしい男だった。誰かが奴をペテン師と呼んだのを聞いたことがあるけれども、本当にそうだ。どこの出身だかわからないめちゃくちゃな言葉で、うっそりと、皮肉っぽく話す仁王。銀色の長髪、口元にホクロ。いつも適当なことを並べて、ひとを煙に巻いてばかりいる。定職についてるんだかもあやしくて、奴がどこからやってきてどこへ行こうとしているのか、誰も知らない。絵に描いたような女泣かせのサイテイヤロウ。それが、仁王雅治という男。

けれど、刺激的でなぞめいて、つかみどころのない浮雲みたいな仁王に、泣きを見るとわかっちゃいても、女たちは恋をせずにはいられないのだ。優しいふりして優しくない仁王の、けれどどこか空っぽな瞳を見てしまうと、女たちはみんな奴が欲しくなる。ここへおいでよと、わたしのもとへ帰っておいでよと、鍵のかたちをした恋のかけらを、誰もが仁王のポケットに突っ込んでいく。仁王もそれを拒まないので、奴の“ねぐら”は、そうして日に日に増やされていくのだ。奴は増えてゆく鍵をチェーンに通して、いつも腰から下げていた。両手の数じゃ足りない、女たちから仁王への恋のかけらたち。けれど多分その中に、仁王の本当の“ホーム”の鍵はない。
















「いい加減、悪趣味。やめたら、そうやって見せびらかすの」
「なんじゃあ、妬いとるんか。いつ会うてもかわいいのう、お前さんは」


抱きしめてやろうか、と奴の両腕が広げられたので、わたしはその足をヒールでぐりぐりと踏みつけた。あいだだだだだだ、と、さして痛そうでもない声で仁王が呻く。奴が身をよじるたびに、チェーンにくくりつけられた鍵の束がこすれて耳障りな音を立てるのが、また気に食わない。わたしは憤慨し、乱暴にジョッキのビールをあおった。ぬるい。まずい。加えて横に座っている男はサイテイヤロウだ。なにもかもむかっ腹にくる。


「おー痛。お前さんのキックはいつ食らっても強烈じゃのう。あんまりおてんばが過ぎると、嫁の貰い手がなくなるぜよ」
「私のお嫁入りの心配するより先に、自分の命の心配したら?そろそろ夜道で刺されたって不思議じゃないわよ。遊んだ挙句に痴情のもつれで殺されることほど、安っぽい死に方ってないんだから」
「ははは、きっついのう。これだからお前さんと会うのはやめられんわ」


仁王は手持ち無沙汰にいじっていたロックグラスを置いて、本当に愉快そうに笑った。奴のあおっていたシーバスリーガルは、もうひとくちと残っていない。仁王は大層なザルだ。そのあたりもまた、奴の“いやみたらしさ”を増長させているように思えてならない。


「調子に乗らないでよね。わたしはあんたなんかに会わなくたって痛くもかゆくもないのよ。わたしをあんたの鍵束コレクションの女の子たちと一緒にしないで」
「ピヨ。これはまた、つれないお言葉」
「優しくされたいなら、他を当たったらいいじゃない。いくら待ったって、わたしはあんたを甘やかしてなんかやらないわよ。いくらだっているでしょう。優しくしてくれる子なら、両手にあまるくらい」


私は腕を伸ばして、仁王の鍵束をひっつかむ。


「ほらここに、ひとり、ふたーり、さんにん…」
「お前さん、やっぱり妬いてるんじゃろ。おまけに酔っとる」
「酔ってないもん」
「まあ、そういうことにしといてやるけん、そろそろ出ようや。終電もなくなる頃合じゃからのう」


しつこく鍵束を掴み続ける私の腕を引っ張って立たせ、仁王は勘定を置いてカウンターを降りた。店を出ると、外気がほてった体にひんやりしみる。冬の気配。つんと澄んだ空気の奥で、電車の駆けていく音が響いて消えていく。駅から路地を数件曲がっただけなのに、嘘のように人の喧騒が遠い。


「しっかり歩きんしゃい、ホラ。駅まで送ってやるから」
「いい。ひとりで帰れる」
「まあ、そう言いなさんなって」


仁王は端正な顔に苦笑を浮かべて、わたしの腕を引っ張って歩き出す。わたしはもう逆らう気が起きずに黙り込んでうつむき、駅まで数分の道のりを歩き出した。仁王が歩みを進めるたびに、奴の皮のパンツの上で、鍵と鍵がこすれて耳障りな音でわたしを苛む。チャリチャリ、チャリチャリ。

この鍵束の中に、わたしが暮らすワンルームのアパートの鍵はない。大学時代の知人である仁王に、気まぐれで飲みに誘われることは今までも幾度もあったけれども、そのたび仁王は必ず、終電までにわたしをわたしのひとりぼっちのアパートに帰した。送ってくれることもあったけど、部屋の中まで仁王が足を踏み入れたことはなかったし、そんな風な雰囲気になったこともない。仁王の数ある“ねぐら”の中に、わたしのあの殺風景なアパートは含まれないのだ。それでいい。それでよかった。ここへおいでよと、わたしのもとへ帰っておいでよと、鍵の形をした恋のかけらで仁王を縛り付ける女のひとりに、わたしはなりたくなんかなかった。明日の夜は来てくれるかしら、その次は、そのまた次は?数ある内、たったひとつのちっぽけな鍵にすがり、あてもなく、ただこの浮雲みたいなサイテイヤロウを待ち続ける女のひとりになったわたしを、わたしは想像するだけでみじめだった。だからわたしは仁王に会うたび、口をすっぱくして言うのだ。わたしをその鍵束の女の子たちと一緒にしないで。わたしはあんたに会わなくたって、痛くもかゆくもないんだからと。


「お、電車、すぐ来るぞ。ぎりぎり、終電に間に合ったみたいじゃの」


でも、その言葉はほんとうは、保険みたいなものなのだ。仁王からわたしという女が必要とされなくなった、そのときのための。わたしは仁王に会わなくたって、痛くもかゆくもない。でも、仁王が本当にわたしをいらなくなった時、わたしはきっと声をあげて泣くだろう。だって、わたしは仁王が好きだ。刺激的でなぞめいて、つかみどころのない浮雲みたいな仁王に、泣きを見るとわかっちゃいても、女たちは恋をせずにはいられないのだ。仁王に抱きしめてほしい。キスをして、彼の本当の“ホーム”になりたい。女たちの誰もがみんな、きっとそう思っている。


「ほら、あと5分じゃ。ひとりで、帰れんな?」


小さい子に問い掛けるみたいに、改札の前で仁王がわたしに尋ねかける。皮肉っぽい笑顔。ふわふわの銀髪が揺れている。当然でしょ、とつんとすまして頷くと、よし、とうざけて重々しく答えた仁王のてのひらが、掴んでいたわたしのスーツの腕をするりと放した。そうされたら、なんだか急にこころぼそくなるのだから、わたしは勝手だ。右腕の、掴まれていた場所に視線を落とし、気付けばわたしは無意識に口を開いていた。


「仁王は」


 ん?と、仁王が首を傾げる。










「仁王は、一緒に帰ってくれないの?」









酔いにまかせ、恋にくたびれたわたしの掠れた問いかけを聞いて、おどけたみたいに笑っていた仁王の表情が、少しこわばった。前髪の隙間からそれをのぞき見たわたしは、もうこんな気軽な関係には戻れないかもしれないと愕然と、しかしどこか他人事のようにそう考えた。だって、今まで仁王が気付いていなかったはずがないのだ、わたしが仁王に恋していること。奴は、わたしのくだらない見得もなにもかも知った上で、知らないふりをしてくれていたのに、今わたしはそんな仁王の優しくない優しさを、自分から放棄してしまった。ああ、ひょっとしたら仁王は、このあと適当な甘いことばをささやき、わたしの部屋へやってくるのかもしれない。わたしを抱くのかもしれない。けれど、そうしたらきっとその瞬間から、わたしの存在は仁王にとって、つまらない、ただの鍵束コレクションのひとつに成り果てるのだ。わたしはどうしようもなく仁王に恋した、みじめな女たちのひとりにカテゴライズされて、彼の腰からキーチェーンにかけて下げられるのだ。

けれど、このまま仁王の優しさに縋っていたところで、どうしたってわたしはみじめだった。恋はみじめだ。こんな気持ち、できることならわたしは知らずにいたかった。でも知らずにいるためには、わたしは仁王と永遠に出会わないままでいなければならず、そんなことは想像するだけで、今の自分よりよりいっそうみじめだった。だって、わたしから仁王への恋を奪ってしまったら、きっともう、あとにはなんにも残らない。泣きを見るとわかっているのに、サイテイヤロウ・仁王雅治を、それくらいばかみたいに、わたしは愛しているのだった。















断罪を待つような気持ちでうつむくわたしを、仁王はしばらくじっと見つめていたようだった。永遠にも思われた長い沈黙。けれど、きっと時間にしてみれば、そう経っていないに違いない。わたしと奴の間を、ひんやりした凍える風が抜けてゆく。冷たさに思わず身を竦めたわたしの前で、ふいに、仁王がふっと笑うような気配を見せた。
「帰らんよ」
そっと呟かれた言葉は、仁王らしからず、なんだかとても優しかった。


「お前さんとこには帰らんよ、まだな」
「……まだって。なに、それ」
「いろいろ、段取りがあるんぜよ。あー、でもお前さん、短気じゃからのう。先に渡しといた方がいいんかな」


一世一代のわたしの告白をさらりと流し、それどころか意味の通らないひとりごとをなにやらぶつくさと呟いた仁王は、次の瞬間おもむろにジャンパーのポケットにこぶしを突っ込み、ごそごそと何かを探し始めた。いくらもたたないうちに、仁王はポケットからスーパーで配られるような、量販的なクラフトの袋を引っ張り出す。仁王は外面や外見に神経質な癖に、変なところがズボラだ。幾重にもたたまれたそれは、皴が寄ってくちゃくちゃになっている。引っ張り出した拍子に、コンビニのレシートやガムの包み紙なんかがぼろぼろと落ちて、わたしは顔を顰めた。しかし仁王はまるで気にした様子もなく、その袋をわたしの手に握らせる。


「ほれ、お前さんに餞別じゃ」
「やだ、きたない」
「ばっちくない。いいから黙ってもらっときんしゃい。ええか、さびしくなった時には、これ見て俺のことを思い出すんじゃぞ」
「そんなきもちわるいこと、しないわ」


わたしが憎まれ口を叩くと、仁王はまた、愉快そうに笑い、今度こそ体を離した。


「お前さんみたいにプライドの高い女を落とすには、もうちょっと焦らしといたほうが確実なんぜよ。大人しく、もうちょっと待っときんしゃい。じき、嫌ってほど俺の顔を見せてやるけに」
「何の話よ」
「こっちの話ナリ」


そう嘯いてウィンクをひとつ残した仁王は、また人を煙に巻くだけ巻いて、さっさと身を翻し、夜の街へ吸い込まれていってしまった。仁王がどこから来てどこへ帰ってゆくのか、知っている者は誰もいない。たぶん、あの鍵束の女たちでさえ、だれひとりとして。
いまや完全に見えなくなってしまった銀髪の影を追うように、わたしはしばらくそこに立ち尽くしたが、いくらも経たないうちに終電のベルが鳴り響いたのが聞こえたので、あわを食ってホームへ駆け込んだ。階段を転がるように上がってきたわたしが見えたのか、車掌が発車をいくらか待ってくれたのがさいわいだった。滑り込むようにして乗った電車は、既に人もまばらである。暖房の効いた車内はむっとして、仁王の冴えた涼しげな気配はどこにもなかった。





ふと思い立ち、あれから握ったままでいたあのクラフトの袋を、わたしがてのひらの上でさかさまにあけたのは、それから数駅を過ぎた頃だった。ころがりでてきたものを見て、わたしは大いにぽかんとする。それは大層小さく、―――指輪のかたちをしていた。細い、シルバーの、けれど中央にまるく光るきれいな石の埋まった、それは、指輪のかたちをしていた。ケースにも何も入ってさえいなかったけれど、ロマンも何もあったもんじゃない渡し方だったけれど、それは嫌味たらしくて“ソツ”のない、あの仁王雅治の贈り物よろしく、あつらえたみたいにわたしの薬指にぴたりとはまるのだった。

ぽかんとしたまま、震える指でつまんで、掲げ上げる。銀の輪の裏側には、透かすように、たったひとことだけの彫刻。















“You are my home”















「………ばかじゃないの」


指輪を持ち上げる腕を下ろして、わたしはムスッと、そう呟いた。縛られる事を嫌い、野生の獣のようにただ、仮の“ねぐら”だけを必要としていた仁王の、たったひとつの“ホーム”への鍵が、いま、確かにそこにあった。

わたしは小さな銀色のそれをクラフトの袋に戻し、丁寧にたたんで、カバンの奥にそっとしまった。夜の闇の中を抜けていく車窓に、あのにくたらしいペテン師の、してやったりといった笑顔がふと浮かんで、消えた。





(fin)










あとがき


仁王くんが最低ですみません(土下座)