席替えがあった。実にくだらない儀礼のひとつだ。席なんて何処であろうと、学生というものはただその本分そのままに、学問を頭に詰め込むだけが義務である。けれど同級生の大多数、おそらく日吉若を除く39名の2年1組の生徒達にはそんな本分は何処へやら、席替えの行われた本日のHRは、軽いお祭り騒ぎの様相であった。くじ箱を抱えた学級委員が机の間を通り抜けていくたび、ワッとそこかしこで歓声が上がる。わあ、わたしは窓際だ、俺は前になっちまった、なあ、お前はどこになったんだ……

「日吉、どこ?」

義務的なまなざしで手の中のクジ紙を眺めていた日吉の肩の後ろから、鳳が顔を出す。関係ないだろ、と日吉のそっけない返事にもめげず、大柄な体をかがめて覗き込んでくる紙には、黒のサインペンで3、と書かれていた。座席表と見比べた鳳の顔が、仕方のなさそうな苦笑いに変わる。

「教卓の目の前じゃん」
「別に、俺は何処だって構わねえよ。やることは変わらない」
「俺、俺はね、窓際の後ろになったんだよ!これからの時期は寒いから、すごく嬉しいんだよね。それにね、」

人懐っこく、たたまれた自分の分の紙を見せようとする鳳を無視して、荷物を纏めた日吉は立ち上がり、指定された席へ移動した。最前列を引き当てた生徒たちがみな鬱々とした表情をしているのに対し、日吉だけはまるで気にした風もなく、割り当てられた教卓前の座席へ着席する。もはや決まった事などどうにもならず、またどんな境遇になろうとも直接勉強に関わるものでもない事に対して、よくもまああそこまで騒ぎ立てられるものだ、と思う。

ふと目線を上げると、自分の目の前、教卓の左端に、深い藍色の花瓶が立っている事に気付き、日吉はうるさげに目を眇めた。板書を見るのにいささか邪魔である。けれど、すらりと伸びた活け口から覗いている、真新しい2輪の百合の花は、日吉の尖った心を僅かに沈静化させた。
誰に対して口に上らせたことも無いが、日吉は花が好きだった。祖母が活花を、母が園芸を好む事もあり、日吉の家から花が絶えた事はない。無力で受動的な存在というものを日吉は嫌ったが、例えどんなに小さくか細いものであれ、花だけはどうしても無視が出来ないから不思議だった。こんな所に、誰が活けているのだろう。今まで後方の席にしか当たらなかったから気付けなかったが、いつからかひっそりと飾られていた真っ白な百合の花に、日吉は少しだけ興味を持った。小学生でもあるまいし、それ専門の係がいるわけでもない。担任が気を利かせて飾っているのだろうか。

考えている間に、無機質なHRが終わりを告げた。号令を待たず、一斉にガタガタと席を立つ生徒達の集合を掻き分けて、「部室、行こうよ」と後方から鳳が飛ぶようにやって来る。馴れ合いを嫌ってどれだけ邪険に振り払っても、まるで効いた様子も無くそばに寄ってくる彼、鳳長太郎が、日吉は苦手だった。今回も盛大に顔を顰めて邪魔だと主張してやるが、肝心の鳳はこたえた気配さえなく、大柄な体の上に乗っけた優しい顔で、人懐っこく笑いかけてくる。

「少しHRが伸びたから、早く行かないといいコートが取られちゃうよ。ねっ、日吉、行こ」

長身を縮めて覗き込んでくるのを無視して、日吉は立ち上がって歩き出した。どうせ見ない振りをしたところで、鳳には効果がないし、実際鳳の言っている事は事実だ。鳳とは違い、日吉は準レギュラーのままだ。コートの争奪戦も激しい。急がなければ、良くて壁打ちが関の山である。待ってよ、と長身に矛盾して子犬のように追いかけてくる弾んだ足音を聞きながら、日吉は歩みを速めた。脇をすり抜けた際の風に押されて、百合の花びらがわずかに揺れる。仄かな薫香が、日吉の鼻をくすぐった。その花に対する日吉の第一印象は、とにかくそんなものだった。






















(帳簿を忘れた)

舌打ちして、日吉はスポーツバッグを掻き回す手を止めた。2ヶ月前、関東大会、続く全国大会で敗退を喫した氷帝学園テニス部では、今秋、跡部から現2年生へ部長職の引継ぎが行われる。日吉はその部長候補として、推薦で名前が挙がっている内の1人だった。最終的な人選は月末に行われるが、名前が挙げられている以上、準備期間は長いに越した事はない。正・準レギュラーに関わらず、部員の情報は少なからず集めておくべきだろうと、3年生引退後から、日吉は独学で帳簿にメモを付けていた。しかし、その帳簿がない。教室だ、と、歯噛みする思いで日吉は眉を顰める。自分らしくもないへまをした。HRのあと、早く行こう、今行こうと鳳が急かすからだ。

幸い、コートは正レギュラーのノックで埋まっており、準レギュラーは自主トレーニングの最中だった。取りに戻るしかない。仕方なく、樺地に最低限の断りをして、日吉はフェンスの外へ出た。トレーニングも兼ねればいいと、全速力で昇降口へ戻り、校内階段を駆け上る。抱える生徒数が多く、敷地も広大な氷帝学園の中で、日吉の在籍する2年1組の教室は3階の最果てだった。トレーニングを積んだ身と言えど、流石に微かに息を切らせながら、日吉は辿り着いた教室の引き戸を開く。室内はがらんとして、他の生徒の姿は見あたらなかった。少し安堵する思いで、日吉は己の机の中から黒のノートパッドを探り当てる。帳面の半分以上は、既に走り書きで埋まっていた。部員たちのテニススタイルの“くせ”や練習の際の些細な思い付きなど、書き込みの中身は多岐だ。けれど、それを活かし切って部を纏め上げるような器用な真似が自分に出来るとは、日吉には微塵も思えなかった。

そもそも、関東、全国の両大会で惨敗を喫した自分が部長候補の中に選出されるとは、日吉は欠片も想定していなかった。実力主義の氷帝学園テニス部にとって、敗北は最も許されざる罪と屈辱である。準レギュラーからの降格さえ、有り得ない話ではなかった。だって自分は、最も負けてはいけない所で負けたのだ。氷帝が上へ進むためのきざはしの柱を、日吉は自ら叩き折ってしまった。なのに、誰も自分を責めない。あの憎たらしい筈の3年生の先輩達は、まるで自然の流れが風に変えるように、コートから去ろうとしている。その上、彼らによって自分が次期部長候補の一員として数えられていると聞いた時から、ずっと、日吉の胸のうろには行き場のない葛藤がじくじくと根付いていた。自分自身の心を何処へ置けばいいのか、日吉は適切な答えを持たない。帳面には書き込みが増えていく。けれど自分がどうすればいいのか、何を目指せばいいのかがわからない。気持ちは、帳簿の後ろ半分の白紙に同化していた。


思考に耽っていたせいでつい俯けていた顔を上げた日吉は、不意におや、と思った。帰りのHRの時までは教卓に人知れず飾られていた筈の百合の花瓶が、消えている。誰かが移動させたのだろうか。何のために?
吸い寄せられるように日吉が視線を移動させたと同時に、かたり、と音がして、教室の引き戸が開く。入ってきた人物が、不意を衝かれたように足をハタ、と止めた。その腕の中に探していた花瓶を見止めて、日吉は眉を顰める。花を抱えていたのは、同級生の女子生徒だった。小柄な腕に、いささか花瓶の大きさが余っている。

「……びっくりした」

本当に驚いたような顔で、彼女はそう言った。教室、誰もいないと思ってたから、と小声で付け足す。

「……いて悪かったな」

何と返したものか当惑した日吉が選んだ言葉は、結局そんな憎まれ口のようなものだった。何処までいっても反抗的でかわいげがない、と、宍戸や岳人辺りには毎日のように小突かれていた事を思い起こす。直すつもりもなかったので、1年半結局延々そのやり取りは繰り返されたが。
他者と群れる事を嫌い、口調に棘や皮肉を混じらせる癖のある日吉は、クラスではめっぽう浮いた存在だ。本人もまたそれを苦にしない性質なので、彼には基本的に気安く会話する友人というものがいなかった。一方的に気安いというのなら鳳がいるが、しかし奴は断じて友人と呼べる存在などではないと、これも日吉は1年の頃から頑として譲らない。当然、花瓶を抱える彼女とも、会話などめっきり交わした事がなかった。
ただ、面識だけという点に絞れば、他のクラスメイトより幾分深く知っている。この総生徒数の多い氷帝学園では珍しい事に、1年時も2年時も同じクラスになった唯一の同級生だ。控えめで、特別目立つタイプではないが、背筋をぴんと伸ばして板書をノートに取る後姿が、なんとなく印象的な少女だった。

「あ、ごめんね。そういう意味じゃないの。ただわたしが最初に来た時は、他に誰もいなかったから、その」
「わかってる」

日吉を不快にさせたと感じたのか、彼女が早口でしどろもどろに弁明するのを、日吉は苦い声で切り伏せた。いわば投げかけられた言葉のボールを、グローブで掴んだ日吉がそのまま投げ捨てたような構図である。気まずい沈黙が辺りに落ちた。これだから、人と会話なんてするもんじゃない。人と馴れ合う事が嫌いだというのもあるが、そもそもからして日吉は会話するという事が苦手なのである。

しらけた空気を振り切るように、彼女が教卓のそばにやって来た。大儀そうに大きな花瓶を元の場所に置く。チャポン、とガラスの中の水が揺れた。ブラウスの白い手が伸びて、百合の花を水の吸いやすい位置に整える。手馴れた仕草だった。

「……お前が世話してるのか、その花」

空気をどうにかしようという義務感からなどではなく、自然に日吉はそう尋ねていた。なんとなく頭の片隅に引っ掛かっていた、花の育て主への疑問が素朴に口を衝いただけだった。彼女は一瞬きょとんとした表情を見せたが、すぐに頷く。

「そうだよ」
「頼まれたのか、担任に」
「ううん、違うよ。わたしが好きでやってるの」
「誰も気付かねえだろ、こんなとこあったって」

口に出してから、流石にこれは言い過ぎたかと、日吉は舌打ちした。実際自分がそうだったのだから事実には違いないが、丹念に世話している相手にわざわざ口にする事ではなかったかもしれない。母や祖母が花と親しくしているのを間近に見て育ってきただけに、日吉は若干気が引けた心持になる。
けれど、彼女は傷付いたような顔はしなかった。そうだね、と小さな微笑さえ口元に浮かべて見せる。虚を衝かれて瞠目した日吉には気付かず、彼女は百合の花びらについた花粉を指で静かに払った。


「誰も見てないかもしれないけど、花はちゃんと咲いてるんだし、わたしはその咲いてるところが好きだから、それでいいんだ。日吉君にもない?そういうこと。見られてたって、そうじゃなくたって、いいの。ただただこれが好きだー!って」


問われて、日吉は目を瞠った。脳裏に一瞬でフラッシュバックしたのは、夏の陽射しが肌を焼いた、眩しいテニスコートの光景だった。遠く近く、うねるように響いてくる歓声とコール。コートを弾むボールの音と、交錯するラリー。躍動する筋肉と、脳を信号のように駆け抜けていく緊張と解放。鼻について仕方がなかった、倒すべきだと敵視していた、けれど偉大な力が確かにあって、誰もが自分にないものを持っていて、心の底ではずっと憧れていた、上級生たちの背中――













(お前の、そのハングリーさは好きだぜ若。登り詰めろよ)
(高等部でまた、俺とお前でダブルス組もうぜっ!)
(ひよしの演舞テニス、俺、だいすき!絶対また見せてくれよな!)
(今までおおきにな。ちょっとだけ、先行っとくで)
(燻ってる暇なんざテメーには無いはずだろ、アァン?俺が見初めてやったんだぜ、光栄に思いやがれ)














(次はお前が氷帝を全国へ連れて行け!)

















テニスが好きだ。
あの夏の日から、胸の“うろ”にずっと燻っていたものの正体の端を掴んだような気がして、自然、帳簿をきつく握っていた腕の力がすとんと抜けた。瞼の裏にチラつく、あの煩くて派手で目に付いてしょうがなかった背中の数々を心中で睨んで顔を上げると、唐突に黙り込んだ日吉を怪訝そうな顔で見つめていた彼女と目が合う。どうしたの、と視線で問われたので、日吉は黙って肩を竦めて見せた。それをどう受け取ったかは知らないが、彼女は不思議そうにまばたきして、けれど僅かに微笑む。

「日吉君、部活の途中?」
「ああ」

自分が帳簿を取りに部活中に抜けてきた事を思い出して、日吉はジャージのポケットに帳簿をしまい込んだ。それを見た彼女はふわりと笑って、当たり前のようにひらりと手を振る。

「がんばってね」
「言われなくてもな」

やはり素直でない返答をしながら、しかしこの教室に入ってきたばかりの頃の自分が同じ答えを返せていたかと問われたら、日吉は何も言い返せない己を知っていた。あの暑い熱い夏、己の敗北を責めてはくれなかった人達。去っていってしまった人達。彼らはもう戻らない。終わってしまったあの日々が、帰ってくる事は決してない。けれど、時間は止まりやしないのだ。次の夏がやって来る。その時に、日吉はもう一度あのコートに立っていたかった。迷っている暇は無い。そしてその過程で部長候補にと選ばれたのなら、それはこなしてしかるべきだ。目の前のものすべてを下克上してやる。

コートに戻るために身を翻した日吉は、しかし教室を出る際に、少しだけ躊躇って足を止め、口を開いた。初めて彼女の苗字を音にして、呼ぶ。すぐに返ってきた、なに?というやわらかな声の返事に、振り返らないまま日吉は呟いた。


「……その花、俺は好きだぜ」


俺の席からじゃ、板書見るのには邪魔だけどな。付け足すと、わずかの間の後に、笑ったような声でありがと、と返ってきたので、あとはもうそれきり一目散、日吉は教室から駆け出した。自分が見失っていたものを、ごく自然に胸にとどめておける彼女の強さをほんの少しだけ、うらやましいと思った。その彼女が育てる花を、見ていきたいとも。



それが、日吉若と彼女の始まりだった。














あとがき


このサイトは昔サイトじゃなくて、ただのブログでした。モチ子にテニスのなんたるかを教えてくれたサキたんが日吉のことが好きだったので、カップリング小説を書けるようになることより先に、ドリームを書けるようになることを先決に考えていた記憶があります。これがたぶんいちばん最初…